キリスト人とユダヤ人 第3回 プロローグ3~ユダヤ人の苦悩とキリスト人の誕生~


「キリスト人とユダヤ人」。この奇妙なタイトルのコラムを書く動機は、私自身の中にある、3つの強い違和感からきている。ひとつは、某国の元総理大臣が嬉々として連呼していた、「法による支配」という言葉への違和感。もう一つは私がイスラエルで感じた「宗教と科学の不思議な共存」に関する違和感。そして3つ目は、ユダヤ教を信じる人々のことを「ユダヤ人」と呼ぶのに、キリスト教を信じる人のことを「キリスト人」と呼ばないことへの違和感だ。今回は、三つ目の違和感について書く。

■なぜ「キリスト人」と呼ばないのか。

ユダヤ教を信じる人のことを「ユダヤ人」と呼ぶのに、キリスト教を信じる人のことを「キリスト人」と呼ばないのはなぜだろうか。ユダヤ教は、ユダヤ民族が信じる宗教であって、キリスト教は民族を超えた普遍的な信仰だからだ。こんな風に説明されることがある。本当だろうか。確かにタナハ(キリスト教徒がいうところの旧約聖書)を紐解けば、ユダヤ民族とはアブラハムの子孫であるヤコブの血統に連なる民族として定義される。そこに疑問の余地はない。この点において、ユダヤ教の出自が民族宗教であることは疑いの余地がないだろう。

しかし、視点を現代に転じてみれば、このようなユダヤ人=ユダヤ民族という定義には、説明力が決定的に不足していることは明らかだ。キリスト教グローバリズムが、世界中の土着信仰(自然崇拝や先祖崇拝)をコンバート(強制改宗)し、キリスト色に染め上げる中で、ユダヤ民族だけがその血統を純粋に守り続けることは不可能だった。現代イスラエルの帰還法では、「母親がユダヤ人であること」「ユダヤ教徒であること」のいずれかに該当することが、ユダヤ人の基本的な定義とされている。

例えば、ドナルド・トランプ氏の娘イバンカ氏は、ユダヤ教に改宗してユダヤ人になった。逆に、たまたまユダヤ人の母親から生まれてユダヤ人と呼ばれていても、もはや民族的信仰を全く持たない人も多い。このような視点に立つなら、少なくとも現代社会においては、ユダヤ教を信じる人のことをユダヤ人として理解するのが妥当だ。従って、このコラムはその定義に立つ。

では、ユダヤ教とユダヤ教徒、そしてユダヤ人をこのように整理したとき、キリスト教やキリスト教徒のことはどう捉えるべきだろうか。先に定義した通り、ユダヤ人とは、ユダヤ教を信じる人であり、それは時として人と国家が定めた法よりも、神との契約(神の法=律法)を優先する人々である。ユダヤ教の分派として始まったキリスト教は、パウロらの聖書解釈に基づき律法を捨て、ナザレのイエスの言葉と行為に帰依した。彼らもまた時として、人と国家が定めた法よりも、彼らが信じるイエスの言葉(福音)あるいは、神の代理人を自称する王(独裁者)や教会の聖書解釈を優先する人々だ。

例えば、アメリカに住む熱心なキリスト教福音派のような人々のことを、「アメリカ人」と呼ぶことは、妥当だろうか。彼らは時に、合衆国憲法よりも聖書の原典のほうが重要と考える。聖書では「産めよ増やせよ」と説いているのだから、中絶や避妊はどんな理由があろうと神の教えに反している。また、人の生死を裁くのは神なのだから、人間ごときが死刑制度を設けるのは罰当たりである。彼らにとっては、合衆国憲法よりも神の法が上位にある。もしくは、神の法に反するような憲法は一刻も早く正しく改正されるべきと考える。このような人々は「アメリカ人」と呼ぶよりも「キリスト人」と呼ぶ方が妥当ではないか。

このコラムは「神の法」と「人の法」の相克を主題としている。そこで、この主題をより明瞭に論じるために、国家の法や他国との条約や国際社会との約束よりも、タナハの律法を重視する人々のことを「ユダヤ人」と呼び、そうでない人々を「イスラエル人」と呼ぶ。同様に、国家の法や他国との条約や国際社会よりも、キリスト教の教えを優先する人々を「キリスト人」と呼ぶ。

アメリカ人やイギリス人、あるいは日本人と話をしているつもりなのに、本当はキリスト人と話をしていた。あるいはイスラエル人と話をしていると思ったのに、本当はユダヤ人と話をしていた。そのような掛け違いは、時として相互理解における深刻な障害をもたらす。それは一神教と縁の薄い日本人が考えるより、時としてはるかに重大な衝突を招く。それは、昨今の国際情勢の混乱を見ても明らかだろう。

先般日本では、熱心なキリスト教カルヴァン派の信者である石破茂氏が、総理大臣の座についた。彼は、日本人石破茂として国政を担うのか。それともキリスト人石破茂としてなのか。中東が混迷を極める中で、日本も恐らく数年以内に大きな決断を下す必要に迫られるだろう。その時彼が総理大臣だったら、その決断は日本の国益のためでなくてはならない。慎重に見ていく必要がある。

■巨大多神教国家に翻弄された古代イスラエルの苦難

ここから本編に入る。では、そもそもこの「ユダヤ人」と呼ばれる人々(ユダヤ教を信じる人)は、なぜ生まれたのか。決定的に重要な要因はやはりイスラエルの地政学的位置づけと思われる。地中海の東端に位置ずる古代イスラエルは、人類最古といわれる2つの古代文明の中間点にあった。ひとつは、チグリス・ユーフラテス流域で勃興した人類最古の文明であるシュメールを祖とするメソポタミア文明(現在のイランやイラクの地)。そして、シュメールから少し遅れてエジプトのナイル川流域で勃興したエジプト文明である。2つの文明圏の間では、文化、宗教、そして貿易など広範な交流や時には対立が、長期にわたって続いた。そしてそれは、地中海航路、そして陸路を通じて行われた。この海路と陸路の結節点にあったのが、地中海東岸に位置する古代イスラエルである。古代イスラエルは、2つの巨大文明の結節点に位置し、それ故に時々の覇権国家間の争いに翻弄されることになる。

ある時、彼らはエジプトの奴隷となった。(このコラムではユダヤ民族の一族が一時エジプトの奴隷であったことは、部分的には史実だったという立場をとる。)しかし、エジプトから脱出してイスラエルの地を奪還すると、ソロモン、ダビデの時代には黄金期を迎えた。ところが、国が分裂し南北に分かれると、今度はメソポタミア文明圏の諸国家に隷属させられる。彼らはアッシリアに敗れてアッシリア捕囚となり、バビロニアに敗れ、バビロン捕囚となった。

■ユダヤ人の苦難とメシア信仰

 アブラハムの神は天地創造の神である。多神教国家であるエジプトの太陽神やメソポタミアの山の神も、アブラハムの神のしもべでしかないはずだ。その絶対神が、律法を守る対価としてユダヤ人に与えた領土が古代イスラエルである。ところが、どんなに忠実に律法を守っても、古代イスラエルは(アブラハムの神にひれ伏すべきはずである)周辺の巨大多神教国家に抑圧され続け、ユダヤ人の苦難と離散は止まることがなかった。

 我々はきちんと「法による支配」を順守(律法を守る)しているのに、どうして神は自らが定義したイスラエルの領有権を不安定にするのか。本当に律法を守る価値があるのか。イスラエルと神の契約はすでに破棄されてしまったのか。ユダヤ人の信仰に揺らぎが生まれる中で、そこに新たな一つの要素が加わっていく。メシア(救世主)信仰である。

 律法を守り正しく生きていれば、いつか必ずメシアが現れ、全ての人々を苦難から解放してくれる時がくる。そのような信仰が浸透していった。このメシア信仰は、特にバビロン捕囚を直接の契機として広くユダヤ教信仰の中に取り入れられていった。そして、多くの「自称救世主」または、祭り上げられた「偽メシア」が現れ、そして消えていった。

■ナザレのイエスの登場とキリスト人の誕生

そして今からおよそ2000年ほど前、「今度こそ本物のメシアではないか」と騒がれる人物がガリラヤに現れた。ナザレのイエスである。イエスは、法匪と化した律法学者を批判し、愛と公正、そして清貧の尊さを説いた。しかし、愛や公正、そして清貧の思想は、ナザレのイエスの「発明品」ではない。そのような価値を重視することを唱えた聖人・あるいは哲学者は、周辺の多神教国家に既に多く存在した。プラトンは愛(エロス)や公正について深く考え、アリストテレスは友愛についてついて多くを語った。

 ガリラヤの人々が、ナザレのイエスが救世主(キリスト)であると信じた最大の理由は、イエスが数々の奇跡を起こしたとされるからだ。イエスは水を葡萄酒に変え、ガリラヤ湖の湖面を歩き、石をパンに変えた。さらには目の見えない病人の目を開き、死人さえ生き返らせた。このような奇跡を起こせるものが、救世主でないはずがない。こうしてイエスをキリスト(救世主)として信じる一派が、ユダヤ教社会の中で勢いを持っていく。

 イエスは、属州の混乱と不安定化を恐れた宗主国ローマにより磔刑に処せられたとされる。しかし、イエスを神の現れと信じる人々はその信仰を守り、昇華させていった。やがて、ナザレのイエスがキリスト(救世主)であると信じる信仰、「キリスト教」が誕生し、大陸で飛躍していくことになる。キリスト人達は、極めて強い信仰心と明確な布教戦略をもって大陸伝道に臨んだ。そして、ヨーロッパで勢力を拡大する。そして、ついにはかつてイエスを磔刑に処したローマ帝国の国教にまで上り詰めることとなった。

一方で、ローマとのユダヤ戦争に敗れ、古代イスラエルの地から離散したユダヤ人は、その後2000年に渡り世界の各地でキリスト人に出くわし、そして激しい迫害を受ける。ユダヤ人は、メシアはいまだこの世に到来しておらず、従ってナザレのイエスはキリストではない、と考えていたからだ。キリスト人は、西欧で、東欧で、アジアで、南米で、そして北米で、ユダヤ人と共存し、対立し、迫害し、追放した。最終的には、キリスト教から反ユダヤ主義のエッセンスを抽出して濃縮したカルト宗教「積極的キリスト教」なる運動を推進した狂気のリーダーが、西欧ドイツに誕生した。彼は、「ユダヤ人の絶滅」を試みた。周辺国のキリスト人たちは、それを見て見ぬふりをした。

このコラムは、主にヨーロッパに離散した2つのユダヤ民族系統である、アシュケナージとスファラディのそれぞれの歴史を紐解く。アシュケナージは、宗主国ローマの中枢に離散し、律法の厳格化やタルムードの発展に寄与した「陸とタルムードの民」である。そしてスファラディは、イベリア半島に離散し、貿易や商業で半島諸国家に貢献した「海と貿易の民」である。それぞれのユダヤ民族は、異なる特徴を形成しつつ、やがて合流していくことになる。

写真:ガリラヤ湖。新約聖書には、イエスがこの湖面を歩いたと伝わる。2019年撮影

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GMDコーポレートファイナンス(現KPMGFAS)にてM&Aアドバイザリー業務に従事。バイサイド、セルサイド双方の案件エグセキューションを経験。 その後、JAFCO 事業投資本部にてバイアウト(企業買収)投資業務に従事。 また、IBMビジネスコンサルティングサービス(現日本IBM)にて、通信/ITサービス企業の事業ポートフォリオ戦略立案等、情報通信/ITサービス領域におけるコーポレートファイナンス領域のプロジェクトをリード。
2013年 IGNiTE CAPITAL PARTNERS株式会社設立。代表取締役就任。
日本証券アナリスト協会検定会員
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