キリスト人とユダヤ人 第1回 プロローグ1「法による支配」という言葉に対する違和感


「キリスト人とユダヤ人」。この奇妙なタイトルのコラムを書く動機は、私自身の中にある、3つの強い違和感からきている。ひとつは、某国の総理大臣が嬉々として連呼する、「法による支配」という言葉への違和感。もう一つは私がイスラエルで感じた「宗教と科学の不思議な共存」に関する違和感。そして3つ目は、ユダヤ教を信じる人々のことを「ユダヤ人」と呼ぶことへの違和感だ。今回は、一つ目の違和感について書く。

■某国総理大臣がいう「法による支配」という言葉の意味が分からない。

“「岸田文雄首相は29日夜、米国などが主催する「民主主義サミット」にオンラインで参加した。ロシアのウクライナ侵攻や中国の軍備増強を念頭に「法の支配は国際社会が守るべき、最低限の基本原則だ」と演説した。” (2023年3月29日 日経新聞電子版)

 これは、日本の総理大臣の発言を報じた記事の一部だ。私には、彼の言葉の意味がよく分からない。米国や日本には法律があり、ロシアや中国には法律がないとでも言いたいのか。だとしたら、それが誤りであることは誰にでもわかるだろう。ロシアにはロシアの法律があり、中国には中国の法律がある。イランにもイランの法律がある。北朝鮮にだって法律はあるだろう。ウクライナに対するロシアの侵略行為は、ロシアの法律に照らせば、当然すべて「合法」である。

■ 古代から現在に至るまで、法に力を与えてきたのは「暴力」
問題は「法の支配」ではない。人が従うべき法(社会のルール)が、誰によって、どのようなプロセスで定められ、力(強制力)を与えられるのか。これは主体とプロセスの問題なのだ。民主主義を掲げる国では、主権を持つとされる国民の投票によって信任を得た政治家により、国会の多数決によって法が決まる。ところが、中国やロシアはそうではない。ロシアではプーチンが法を作り、中国では習近平が法を作る。もちろん独自の細かいプロセスはあるが、2人の独裁者が目指すところは、要するにそういうことだ。

私は世界史の専門家ではないが、そもそも古今東西の歴史に登場するすべての社会において、ルール(法)が存在しなかった時代などないだろう。いつの時代にも、人間の社会集団にはルール(法)があった。そしてほとんどの場合、それは暴力(軍事力)に裏付けられた権力を持つ統治者(ほとんどが独裁)によって定められた。法の強制力はその統治者の権力の強さに依存した。軍事力と信用を失い、法に強制力を与えられなくなった統治者は、新たに力を得た者の挑戦を受けた。そして戦争に敗れると、敗者の法は勝者によって上書きされていった。

こうした中で、おそらく有史以降初めて、軍事力(暴力)以外で法に力を与えることを体系的に考えた民族が中東に現れた。のちにユダヤ人と呼ばれる人々だ。恐らく紀元前3000年~1000年前後だろう。今回は、この人々が、「神」という概念を構築していった流れを書こう。勿論これは、個人的解釈にすぎない。そのことはあらかじめ断っておく。

■ どんな独裁者も支配できない「絶対的な力」の存在
古代社会において、暴力によって自らの法に力を付与してきた統治者たち。しかし、エジプト王のような強大な統治者にも、どうにもならない絶対的な力があった。それは自然の力だ。どんな権力者も雨を降らせることはできない。海を創ることもできない。大地の怒り(噴火や地震)を鎮めることもできないし、夜の空に太陽を浮かべることもできない。どんな傲慢な権力者も支配できない絶対的な存在。それが自然だ。そしてそれは、太古から人々の畏れの対象となり、非軍事的な社会統治システムとして緩やかに機能してきた。アミニズムやシャーマニズムだ。精霊崇拝、自然崇拝といわれる原始的宗教である。

■どんな権力者も及ばない力を持つ自然。その自然を創造した「全能の神」という論理
私は、こうしたアミニズムやシャーマニズムの概念から派生したのがユダヤ教だと考えている。ユダヤ教の経典であるタナハ(キリスト教徒がいうところの旧約聖書)は、神がすべての自然を創造するところからスタートする。彼らの神は、創造の7日間で、光と闇、天と地、月と星など全ての自然を創造し、6日目には人間を創造した。7日目に休息をとった。(創世記 第1章26-31節)

どんな権力者(法の支配者)も支配できない自然。この絶対的なものを創造したなにかがあるなら、それは全てを超越した存在だ。それまで人々が信仰してきた、山の神や海の神、太陽の神も、皆ひれ伏すべき絶対の存在。私は、タナハにおける天地創造の物語は、ユダヤ教という宗教が「神」という概念に力を与えるために考え抜いて生み出した論理だと考えている。

■ 神は、人と契約を結んだ
そして、ユダヤ教の創始者たちが、神という概念を人々の統治に適用するために考えたもう一つの論理が、「契約」という概念である。神は、天地創造の6日目に土くれからアダムを創造し、その肋骨からエヴァを創造した。そして人間の代表である彼らに対し、実に寛大な待遇を与える。
神が彼らに与えたエデンの園は、アダムとエヴァにとって完全な環境だった。全ての必要が満たされた。労働も無ければ、死の苦しみもない。天国のような安らぎと平和の中で生きることができた。但し、これらの便益を存分に享受するために、2人はたった1つだけ、神との契約を守る必要があった。

「知恵の実を食べてはならない」(創世記 1:28/3:16-19)

これが、神が二人に課した、唯一の約束(契約)である。しかし、二人はあっさりと契約違反を犯し、知恵の実を食べてしまう。そして楽園から追放される。わたしの解釈では、ここから始まるタナハの物語は、神と人が契約を結び、そしてやがて人がそれに違反してしまう「契約違反の物語」だ。そして、両者が契約改定を重ねるたびに、神と人の契約書はどんどん分厚くなっていった。人が何度契約違反を繰り返しても、神は怒りつつも適宜契約を改定・追加・補強して、何とかして人間を契約(神のルール)に従わせようとした。さらに紐解いてみよう。

■ノア契約の締結
アダムとエヴァの追放後、何かにつけて怠惰で愚かな人々を見かねた神は、一度は洪水により人間を絶滅させようと試みた。しかし一方で、人間に対する一縷の望みを捨てきれず「真面目で正直な」(創世記 6:9)ノアを選び、箱舟に乗せて救った。そしてノアと覚書(ノア契約)を結ぶ。今度は口約束ではない。しかしまだ契約と呼べるまでは体系化されていない。だから私の解釈では、これは覚書だ。神はこの覚書のサインとして空に虹をかけた。(創世記9:120-7)

■アブラハム契約の締結
 しかしこのノア契約(覚書)も、やはり人間は守れない。そこで神は、さらに契約を強化する必要に迫られる。選んだのはアブラハムだ。神がアブラハムを選んだ理由はタナハに明文化されていないが、彼は、ノアと同じように神との契約を守る素質(素直さ、真面目さ)があると見込まれたのだろう。以下に、タナハにおけるアブラハム契約締結の箇所を引用する。

“「私は全能の神である。私の前に歩み、全きものでありなさい。そうすれば、私はあなたと契約を結び、あなたを大いに増やす」。「これがあなたと結ぶ私の契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名はもはやアブラムとは呼ばれず、アブラハムがあなたの名前となる。あなたを多くの国民の父とするからである。私はあなたを多くの子孫に恵まれる者とし、諸国民を興す者とする。こうして王となるものたちがあなたから出るであろう。私はあなたと、あなたに続く子孫との間に契約を立て、それを代々にわたる永遠の契約とする。私が、あなたとあなたに続く子孫の神となるためである。私はあなたが身を寄せている地、カナンの全土を、あなたとあなたに続く子孫にとこしえの所有地として与える。こうして私は彼らの神となる」(創世記17章)

 このアブラハム契約と、前述のノア契約の相違点はなにか。わたしの解釈では、重要な相違点が3つある。

■両契約の相違点1「契約当事者の範囲」
ノアは全人類の代表として神と契約したのに対し、アブラハム契約はアブラハムとその子孫との契約だ。つまり、人間側の契約当事者の範囲が異なる。タナハの物語では、神はアブラハム契約において、人類全体ではなく、アブラハム一族を選んで契約を結んだ。なぜか。

わたしの解釈では、人が神との契約を守れば、確かな便益が得られるという具体的な成功事例を、アブラハム一族の繫栄を通じて人々に示すためだったからだ。「みんなのお手本になって律法を守りなさい。そうすれば大きなメリットがある」。私は、神がアブラハムを選んだ根拠をこう捉えている。

■両契約の相違点2「契約義務の具体性」
 ノア契約とアブラハム契約の違いはまだある。それは、契約当事者としての人間側の義務の範囲だ。ノア契約では、神は人に対して、洪水で人を滅ぼす試みは二度としないことを誓った。その上で、人に対していくつか具体的な契約義務を課している。「子孫を増やすこと(産めよ、増やせよ)」「殺人の禁止」「血を食することの禁止」、などだ。(創世記第9章)

 一方で、アブラハム契約では、彼とのその一族・子孫に対して、「子孫の繁栄」「リーダー(王)の多くを一族から出すこと」、そして何より「カナン(現在のイスラエルを含む地中海東岸地域)の領有権」という便益を与えたのに対して、特段具体的な義務(法)を負わせていないように見える。ノア契約に対して、アブラハム契約は「神との契約を遵守せよ」という抽象的な内容である。

■両契約の相違点3「契約締結の証明手段」
但し、その代わりに、アブラハム契約には、ノア契約にはない契約手続き上の特徴がある。それはある意味具体的な法よりも本質的で、現代までユダヤ教徒に受け継がれる重要な責務だ。それが「割礼」である。アブラハムとその一族は、神と交わした契約の印として、その身体に割礼を刻むことを義務づけた。ノア契約の契約印は、「虹」だった。しかし、アブラハムの一族は契約の印を体に刻むことを義務付けられた。むろんそれは、神との契約をひとときも忘れないためだろう。

■十戒の成立とユダヤ教の誕生
 アブラハム契約からさらに時代が下ると、神はアブラハムの子孫の一人「モーセ」を選び、一族をエジプトから脱出させた。そして、シナイ山において彼に対し、さらに具体的な契約内容を示す。「十戒」である。このタイミングで神の契約は、明確な成文法として表されることになった。契約の印を割礼として体に刻み、十戒を守ることを誓った人々。ここに、ユダヤ人(ユダヤ教徒)と呼ばれる人々が誕生した。

■領土の正当性を「神との契約」という概念で正当化しようとした人類初の試み
この十戒において、アブラハム契約で定められた一族のカナン領有権が改めてより具体的に示された。

“私はあなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海まで、荒れ野から大河までと定める。わたしはその地の住民をあなたがたの手にわたし、あなたは彼らを自分の前から追い払う。”(出エジプト記 第23章31)

ある民族や集団が、自らの領土の正当性を「神との契約」という、軍事力以外の論理で正当化しようとしたのは、恐らくユダヤ教を創った人々が初めてであり、かつほぼ唯一の試みだろう。

古代の地中海一帯は、世界で最も早くから商業貿易が発達したエリアの一つであることはいうまでもない。そこでは、複数の覇権国家が、自らの法を他者に強制すべく、軍事覇権を争いあった。太陽神を信仰する古代エジプトの勃興。地中海東部の内陸ではやがてアケメネス朝やササン朝が現れた。一方でギリシアでは多神教をベースとしたポリスが発達。そして、ローマ帝国が勃興していく。こうした中で常に圧倒的マイノリティのユダヤ民族が、軍事力で彼らに対抗することは不可能だ。だから彼らは独自の神を創造した。

エジプトの太陽神も、ギリシャの神々も、ローマの神々も、みなひれ伏すべき唯一神であるヤハウェ。そのヤハフェがユダヤ民族と契約を締結して与えた対価が、古代イスラエルの領有権である。

そして、この神との契約は永遠であり、21世紀の現在でも、契約は有効に存続していると考える人々が、ユダヤ教超保守派の人々だ。パレスチナ人をゴラン高原から追放し、ヨルダン川西域における入植と実効支配を進め、ガザ地区との境界に壁を築く原動力である。

これに対し、イスラエルの国家としての適法性は、1947年11月の国連総会決議181に基づくと考えるのが、民主主義を重視するイスラエルのリベラルな人々、そして恐らく、日本を含む国際社会の一般的立場だ。アブラハム契約や十戒が神との契約ならば、1947年の国連決議は「人との契約」である。

今イスラエルでは、司法改革をめぐり大きな混乱が生じている。司法改革に反対するために、テルアビブのデモに参加し、イスラエルの民主主義を守りたいと訴える人々の多くは、神の契約を尊重しつつも、人との契約をまず守るべきだと考えているのだろう。神との契約と人との契約のどちらが大事か。このテーマをめぐって一神教世界の人々は現代も争い続けている。

このコラムでは、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)のいずれも無縁に生きる日本人の視点から、この一神教の歴史を紐解いてみたい。アブラハムの宗教を信じる人々は、世界人口の5割を超える。一神教を理解することは、世界の半分を理解するための有効な手段だ。

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2013年 IGNiTE CAPITAL PARNERS株式会社設立。代表取締役就任。
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