平戸沖海戦
「や!あれはなんだ!いかん。ナウ船だぞ!」。
堺を出航してから十五日後。下関で商いを済ませた弁才船は、平戸まであと少しの距離を残し、玄界灘沿いを西進していた。船の左舷前方で叫ぶディエゴの横に、ラケルが駆けつける。はるか遠く、北の水平線の上に船影が見える。しかしその輪郭は、明らかに和船と異なっている。ラケルは、その黒点を数十秒、凝視する。
「間違いない。ポルトガルのナウ船だ!アウロラ号よりはるかにでかいぞ。左右にそれぞれ十門の砲、最新型だ!なんの目的か分からんが、迂回してやりすごすぞ!」。
ラケルはそう叫び、船頭から舵を奪い取る。
「すまぬ、藤吉殿!私が操船する!」。
そういうと、ラケルはすぐにディエゴに命じる。
「帆を縮めろ!こっちが風上だ。速度を落として時間を稼ごう!急に蛇行すると、怪しまれる。徐々に左に旋回して離れるぞ!」。
そういう間にも、弁才船は風で帆を膨らませ、西に走る。東に進むナウ船との距離は、否応なしに縮んでいく。気が付けばもうその姿は、黒点から小指の先ほどの大きさに拡大している。そしてつぎの瞬間、最悪の事態が起きる。舳先を馬渡島方向へ向けていたナウ船が、突然その向きを変え、弁才船に向かってまっすぐ進み始めたのだ。
(なにが起きている?落ち着け。焦るな。ただ進路を少し変えただけだろう)。
しかし、その船影が近づくにつれ、その舳先がまっすぐとこちらを目指していることを認めざるを得なくなる。こちらが舵を左に切ると、ナウ船は右に舵を切る。そして、再度舳先をこちらにぴたりと合わせてくる。残念だが、この船に用があるらしい。さて、どうやりすごすか。その時、後方を監視していた田川が叫ぶ。
「左舷後方より、関船三隻、八艘船多数。船旗に三ツ星。我らが水軍なり!」。
それを聞いた田川の臣下より、鬨の声が上がる。
「おおーーー。おおーーーー!」。
そして、その鬨の声の中から、別の者が続けて叫ぶ。
「関船の後方、アウロラ号!」。
その声に、ラケルとディエゴはバネにはじかれたように船尾に走る。
「おお。我が娘よ!」。
ディエゴが感極まって叫ぶ。ラケルも無言で頷いて、藤吉に叫ぶ。
「帆を降ろせ!完全にだ!漕げる者は全員で漕ぐぞ。松浦様が風上。ナウ船が風下だ。全力で漕いで、先に松浦軍に合流する!一刻を争う。急げ!」。
男は全員、漕ぎ場に向かう。ラケルは、藤吉が預かっていた舵を再び手にし、旋回を開始する。船首がぴたりと関船を狙う。あとは漕ぐのみだ。振り返ると、ナウ船もまた懸命に漕いでいる。その船影は、さらに大きさを増している。ラケルは、その甲板に二人の宣教師らしき男が立っていることを確認する。一人は知らない小男だ。そしてもう一人は、風体に見覚えがある。そう。あれは、オルサンティだ。
この時。ナウ船の上では二人の宣教師が水平線を見つめ、既に確信している。
「あの和船だ。間違いない。堺の港で見たものだ」。
オルサンティが、恨めしそうにつぶやく。
「あのバカでかい牛みたいな奴がディエゴだな。あれならどっちにしてもすぐにわかる。しかし、面倒なことになりそうだな」。
オルサンティの横で小男がつぶやく。トマス・コスタ。イエズス会員を装った、マカオの聖務裁判所審問官である。フロイスを見つめたあの洞窟のような眼は今、弁才船の後方に現れた大船団を凝視している。同船している武士が叫ぶ。大村バルトロメオから借りてきた兵士達だ。
「あれは松浦水軍だ!この海域はやつらの庭だ。無理は禁物ですぞ!」。
コスタは、その言葉に耳を傾けるつもりはない。坂本城下に潜伏していることを掴んでから早三年。ユダヤ人達を保護していた信長も光秀も、もうこの世にはいない。この時をひたすら待っていたのだ。コスタが叫ぶ。
「船団と合流する前に大砲の射程に入れろ!停船させてすぐに拿捕する。女医者とでかい奴。用があるのはその二人だけだ!」。
しかし、松浦水軍は、海も風も、知り尽くした海戦の猛者である。まして、ここは彼らの庭だ。船団は、風を巧みに操りながら恐ろしい速さで弁才船に近づく。巨大な船体を風上に向かって漕いでで進むナウ船が、及ぶべくもない。アウロラ号は、みるみるうちに船団に囲まれる。ラケルは、船団の中心を進む一際大きな関船の船首に目を凝らす。そしてそこに、勇壮な鎧甲冑に身を包んだ武将の姿を認める。間違いない。松浦隆信である。田川が、隆信に向かって叫ぶ。
「隆信様。京にて大政変あり。ラケル殿と急ぎ平戸に戻って参りました!」。
隆信は深くうなずくと、素早く命じる。
「ラケル殿とディエゴ殿をアウロラ号へ。田川は八艘船に移り、戦闘用意。弁才船は平戸まで曳航せよ!」。
アウロラ号から降ろされた小舟が、弁才船に漕ぎ寄ってくる。栗色の髪をした、逞しい長身の青年が、その船を指揮している。
「ロドリゴか?でかくなったな!見違えた!」。
ラケルは弁才船に乗り込んできたロドリゴを抱きしめる。いつもその胸で抱きしめてきたロドリゴの顔は今、ラケルの頭のはるか上にある。もう、ディエゴと並んでもほとんど差はない。
「姉さん、急げ!あのポルトガル船には、聖務裁判所の奴が乗っている!」。
その言葉に、ラケルは身を強張らせる。恐らく、あの小男の宣教師だろう。ラケルとディエゴを乗せた小舟は、素早く弁才船から離れる。そして、全力でアウロラ号へ向かう。小舟の上で、ロドリゴがラケルに伝える。
「一つ目。六日前に京から手紙が来た。南蛮寺のロレンソ了斎からだ。長崎に、聖務裁判所の奴がいるから、坂本城から出ても絶対に近づくな、ラケルの行動は監視されている、と書いてあった」。
ラケルは小舟の中でそれを聞き、ふーっと、一息を吐く。
「もう一つ。二日前にフロイスという宣教師が籠手田殿を訪ねてきた。土砂降りの雨の中をいきなり現れて、少し話してすぐに去ったらしい。フロイス殿によれば、聖務裁判所が、俺たちを捕縛する作戦を練っている。政変の混乱に乗じるつもりだと。手紙じゃ間に合わんから伝えに来たと。平戸も危ない。すぐ海外へ逃げろ、ということだ」。
それを聞いたラケルは、小さく頷き、下を向く。
(フロイス殿、了斎殿。この恩は忘れぬ。あの宗論は、私の宝だ)。
ラケルは、胸の中でそう呟いた後、ロドリゴに聞く。
「松浦様は何と言われておる?それからあのミゲルは?」。
「ミゲルは松浦様が京に返した。松浦様も、俺たちは早く海外へ逃れた方が良い、と言っている。この政変は全く読めないし、龍造寺もますます厄介だとのこと。それでアウロラ号を連れてきた。水も食料も腹一杯積んである!」。
「そうか。分かった。マカオはダメだ。台湾を経由してマニラを目指そう。そこからヌエバ・エスパーニャに渡る機会を伺う。トルデシリャス線を超えるぞ!」。
小舟がアウロラ号に接舷される。縄の梯子をまずロドリゴが、そしてラケルが、最後にディエゴが甲板へと上っていく。その時だった。
「ドーン、ドーン、ドーン!」。
轟音が玄界灘に轟き渡る。その爆音と共に、恐怖が胸を突き抜けていく。ラケルは縄梯子の中腹で振り返り、音の方向を見定める。ナウ船は、既に関船を射程圏内に収めている。右舷前方の大砲が三門、黒光りする砲身を覗かせている。一つは関船に、そして、二つがアウロラ号を向いている。目的ははっきりしているようだ。関船の砲はまだ敵に届かない。
「ドーン、ドドーン!」。
更に轟音が鳴り響く。アウロラ号を狙った砲弾が、さらに近くに着弾する。照準が修正されている。次か、その次か。命中する恐れは高い。
「左に回頭!ディエゴ、ロドリゴ!右舷の砲でナウ船を狙え!」。
ラケルは、甲板に躍り出るなり、二人に命じる。二人は弾かれたように右舷に飛んでいく。その時だった。大きな銅鑼の音が、海上に鳴り響く。隆信が指揮する旗艦の上で、色とりどりの旗が八艘船に向けて振られている。ついで、法螺貝の音が鳴り響く。それに呼応して、全軍から鬨の声が上がる。
「エイ、エイ、オオ!」。
隆信が、鉄板を貼り合わせた軍配団扇を振り立てる。その動きに応じて、さらに鬨の声がこだまする。それと同時に、三十艘を超える八艘船が、一斉にナウ船に襲い掛かる。ナウ船は慌てて砲の向きを変え、近づく船団に撃ち放つ。
「ドーン、ドドーン!」。
群雄している戦隊の中ほどを進む八艘船の、右舷船首を大砲がかすめ、船首が吹き飛ぶ。しかし、船は止まらない。船団はナウ船にさらに接近し、早くも大砲の死角に入ろうとしている。そして、先頭を走る船の船首にいるのは、あの田川である。弁才船からそのまま八艘船に乗り換え、突撃したのだ。
「ドドーン!」。
ラケルの足元が、振動で激しく揺れる。アウロラ号の右舷から、大砲が火を噴く。
「このへたくそが!ディエゴ!ナウ船の前方に射撃しろ!船を停めればそれでいい。間違っても味方に当てるなよ!」。
「うるせえ!わかっとる!こちとら海賊家業は十年ぶりだ!腕だってなまるわ!」。
減らず口を叩きながらもディエゴは再度照準を定める。ロドリゴが必死で砲に弾を込める。弾はあと二発しかない。
「ドドーン!ドーン!」。
アウロラ号から放たれた放たれた砲が、ナウ船の舳先の水面に着弾する。ナウ船が速度を落とす。それを見計らったかのように、田川の八艘船がさらに近づき、今にもその右舷後方に取り付こうとしている。その時だった。パンパン!乾いた音が鳴り響く。マストに翻るポルトガル十字の横で、小さな大村瓜が揺れている。砲の死角に向かって、大村の兵が銃を乱れ撃ちしているのだ。そしてその時。
「ぐわ!」。
乾いた声が、数百メートル離れたアウロラ号のラケルにもはっきりと届く。八艘船の上で田川の長身の体が、がくっと崩れ、ひざをつく。
「田川殿!」。
ラケルの叫びが海に響き渡る。
「ロドリゴ!直ちに回頭!田川殿を処置する!」。
その時、旗艦の関船から怒号が響く!
「ならん!ならんぞ!ラケル!行ってはならん!大島を超えて外洋へ抜けよ!おぬしがやるべきことをやれ!」。
「しかし、隆信様!田川殿が・・・・」。
「ならん!行くのだ!」。
「しかし、しかし、・・・」。
睨みつけるように見つめる隆信の姿が、ラケルの目の中でにじんでぼやける。ディエゴが叫ぶ。
「進路を北に取れ!全ての帆を上げろ!全速力で台湾へ向かうぞ!」。
アウロラ号の回頭を見て、隆信は満足そうに小さく頷く。そして、眼前の海を見据え、深く息を吸い込む。
「良いか皆の者!玄界灘は我らの庭じゃ!松浦水軍の名に懸けて、この戦に負けること、まかりならん!これは福田海戦の汚名をそぐ、雪辱戦じゃ!」。
「おおーー」。
三艘の関船の上で、全員が雄たけびを上げる。隆信は、もう一度団扇を高々と天に掲る。そして、振り下ろす。
「かかれ!」。
銅鑼が狂ったように打ち鳴らされる。軍旗が目まぐるしく入れ替わる。複数の八艘船がさらに加速し、次々にナウ船に取り付く。鍵縄が投げ込まれ、侍が次々と甲板に乗り込む。激しい肉弾戦の声と音が、海の上を滑っていく。
「ドーン、ドドーン」。
ナウ船の大砲が再び火を噴く。既に松浦水軍の軍勢が甲板に張り付き、激しい白兵戦が繰り広げられている。こうなるともう、こちらから大砲を撃つことはできない。危険すぎる。
「ズシーン」。
巨大な水柱がアウロラ号の左舷を襲う。距離は、わずか数十間。近い。
「あいつらはどうしてもこの船に用があるらしい。面舵いっぱい!とにかく走れ!次は当たるぞ!備えろ!」。
ラケルの声が、アウロラ号の甲板に響き渡る。
この時、ナウ船の右舷大砲では、二人の大村兵が再びアウロラ号を狙っている。この一撃を逃せばもう、敵は射程外へと去るだろう。一人が力づくで、砲の仰角を一度ほど上に向ける。そして、もう一人が栗の木の先に火縄を挟み、着火点へと押し当てようとした、その時だった。
「うおお!」。
白兵戦を潜り抜けた一人の侍が、火縄の男に襲い掛かる。侍の左腕は血まみれで、だらんとぶら下がり、もはやその機能を為していない。その侍は、右手で振り上げた刀を、長身から一気に振り下ろし、火縄の男を袈裟懸けに斬り捨てる。火縄の男は低くうめき声をあげ、その場に崩れ落ちる。片腕の侍は、さらに砲手に向かって斬りかかる。その刹那、男の体が後ろに激しくのけ反る。宙に振り上げたその刀が男の手から落ち、床を転がる。
「ゴフ・・・」。
血を吐いてなお屹立する男の背に、一本の槍が突き刺さり、背骨を打ち砕いて腹まで貫通している。砲手は返り血を浴び、血しぶきにまみれる。侍は、砲手になだれかかるように崩れ落ちる。砲手の耳に、男の最後の言葉がかすかに響く。
「十分じゃ・・・」。
雪崩かかるように倒れ込む男を、砲手は無理やり払いのける。崩れ落ちる侍の右足から、子具足が外れて落ちる。その下から現れた古い銃創は、不思議なほどに綺麗なままだった。
アウロラ号は、急速に戦線から遠ざかる。男達の鬨の声も、激しく打ち鳴らされる銅鑼の音も、水柱を上げる大砲の轟音も、どんどん遠ざかる。やがてその戦いの光景もまた、島の影に隠れていく。外洋に出る。風はさらに強くなる。飛ぶように北へ進む。海面に浮かぶ陸の姿も、ぐんぐんと小さくなり、細い糸になる。やがてその糸も、水平線と絡まり逢い、一本の蒼い紐となった。