落城
天正十年、六月十三日。ラケルはまだ、京都にいる。本能寺で信長が光秀に討たれたことは、瞬く間に天下に知れ渡り、その日のうちにラケルの耳にも届いていた。坂本城下の小さな寺に医院を構えて三年。ラケルはまた、逃亡の旅が始まることを覚悟している。しかし、まだその一歩は踏み出されていない。運命のサイコロがどう転がるか、混沌として知れなかったからだ。そしてこの日、遂にその出目を知らせる一報が、早馬と共にラケルにもたらされる。
田川が寺門の前で受け取った手紙の主は、明智左馬助秀満。伝令の男は、二通の手紙と共に一房の巾着袋を差し出すと、風のように去る。巾着袋はズシリと重い。その手触りから、それがかなりの金子だと判る。ラケルは手紙に目を走らせる。
「天下統一ならず。城下婦女子、急ぎ城を離れよ」。
ここまでは、予め書かれてあった字のようだ。そしてその下に、殴り書きで、ラケル宛ての伝言が書かれている。
「平戸に戻られよ」。
見覚えのある光秀の字である。もう一通の手紙は、松浦隆信に宛てた光秀の手紙である。ラケルの庇護を求める内容であることは疑いがない。
「田川殿。ディエゴ。すぐに出よう。大阪で船を見つけて、平戸へ向かう。荷は最低限だ。一刻以内に出発するぞ。大阪までは馬だ。船は危ない気がする」。
田川とディエゴは無言でうなずく。ラケル、ディエゴ、田川に加え、平戸から田川に着き従ってきた三名。わずか六名の逃避行である。医院で働いていた侍女らに、金子の一部をわたし、すぐ逃げるよう言い渡す。準備を終え、一行が寺の門を出たのは、手紙を受け取ってからわずか半刻後のことだった。全ての者が馬術の熟練者である。六頭の馬が、琵琶湖沿いの街道を、疾風のように駆け抜ける。そして、一行が半里ほど走った時だった。誰かが叫ぶ。
「琵琶湖が燃えている!」。
一行は馬を停め、後ろを振り向く。坂本城が燃えていた。炎は瞬く間に、天守を覆い尽くす。湖の上に立ち上る巨大な火柱は、天まで届かんとする巨大な蝋燭のように、荒々しく燃え立っている。その悲壮な最期は、妖しい煌めきを湖面に映す。
「湖に浮かぶ、秀麗なる巨城」。
ルイス・フロイスは、安土城に次ぐといわれた坂本城の壮麗さを、そう称えた。その滅美の姿に、見る者は皆、無言となる。
田川が馬の腹を蹴る。
「急ごう。明日の朝には船に乗りたい」。
ラケルは、田川の後ろに付いて街道を右へと駆け上がる。山越えの道へと、馬を誘う。四頭の馬が、その後ろを疾走していく。一行は、ほんの少しの休憩を挟みながら、夜を徹して道を急ぐ。山を抜け、京の町を抜け、大阪を目指す。馬の息も絶え絶えになろうという頃、一行はようやく堺に着いた。
田川は、すぐに船の船頭たちと交渉を開始する。平戸まで、小ぶりな弁才船を一艘借り切りたい。しかも出立は可能な限りすぐに。難しい注文だ。しかし幸いにして、ほどなく船は見つかった。藤吉という名の船頭は、予定の積み荷を半分おろし、平戸に行くと請け負った。ただし、絹織物を得意先に売るため、下関に二日、停泊すること。それが藤吉が出した条件だった。ラケルと田川は、これを受け入れる。船を借り切るために要求された額は、かなりの大きさだった。ラケルは、光秀からの金子の一部をそれに充てる。
一行は馬を手放し、弁才船に乗り込む。船は静かに岸を離れる。遠ざかる堺の港を見つめるラケルの頭の中に、この三年の出来事が走馬灯のようにめぐる。信長を毒から救い、宗論をした安土城のこと。坂本城下に医院を構え、町の人々を治療し、京の和医と技術を語りあった日々。たまに請われて参内し、光秀と言葉を交わすこともあった。しかし、湖上で討議したあの話に、光秀がもう一度触れることはなかった。光秀は、ラケルとディエゴが語る、異国での他愛もない失敗話に、声を上げて笑った。
その光秀が信長を討った。そして昨日、その光秀もまた、秀吉に討たれた。自分の人生を翻弄する濁流の激しさに、ラケルはまだ心が追いつかない。しかし、まずは、生きて平戸に戻る。心の整理をするのはそれからで良い。ラケルはそう自分に言い聞かせる。
そしてこの時。堺からひっそりと出帆したこの一団を、物陰からじっと見つめる、一人のポルトガル人宣教師がいた。その顔の真ん中にある鼻は醜く曲がり、その眼にはどす黒い怨念の光が宿っていた。