宮の前事件
「王直が平戸に来たのは、もう三十年以上も前になるだろう。彼は明から海賊として追われ、平戸に来た。隆信公はこの屋敷で、彼を賓客として遇した。王直は平戸を拠点に貿易を続け、平戸にも大いなる富をもたらした。その中で王直は、おぬしの故郷、ポルトガルの貿易商人と関わりを持つようになる。ポルトガル人は、王直から日本と平戸のことを聞き、ぜひそこへ行きたいと考えた。そこで王直は、彼らを隆信公に引き合わせることにした」。
田川は、そこまで言うと、火箸で囲炉裏を刺し、焦げた薪を裏返す。灰が舞い、燠がパチパチと、音を立てる。
「王直の仲介でポルトガル人にあった隆信公は、大いに喜ばれたよ。南蛮の文物や珍品は、これまでのどの貿易品とも違ったからな。そしてなにより、鉄砲と火薬だ。喜んだ隆信様は彼らに大いなる寛容を示し、キリスト教の布教も快く赦した。それが貿易拡大につながると思われたのだ。生月島をはじめ、平戸の島々や町まで、あっという間に数千の民がキリシタンとなった。私も隆信様のご意向もあり、洗礼を受けた。ポルトガル語を学べとも命じられた。それ以来数年に渡って、わたしはイエズス会でキリシタンの教義を学び、ポルトガル語を習得し、そして時には伝道にも努めた」。
ラケルは、自分も茶碗に湯を汲み、白湯を飲みながらじっと田川の話に耳を傾ける。ペレイラから聞いていた話とおおむね同じだ。しかし、それほどの速さでキリシタンへの改宗が進んだ事に、やはり驚きを禁じ得ない。
「ところがだ。キリシタンが増えるにつれて、平戸では様々な問題が起きるようになった。最初に衝突したのは寺だ。改宗してキリシタンとなった領民たちが、仏閣を襲って仏像を破壊する事件が続発したのだ。おぬしも分かるだろう。人の形をした仏像を拝むのはキリシタンからすれば明らかな偶像崇拝だからな。これは別にイエズス会が先導したわけではない。わしはイエズス会の連中の通詞もやっておったから良く分かる。宣教師の連中からすれば、日本人キリシタンがそうした破壊行為を行えば、隆信公との関係が悪化し、布教に悪影響がでることは容易に想像できたことだ。しかし、ひとたび改宗した日本人の中には信仰に熱を帯び、勢いのまま破壊行為に出る者がたびたび現れた」。
田川の話を聞きながら、ラケルは、少しの恐怖を感じる。ひとたび熱狂すると、信じるものに従い驚くような集団行動に出るのは、日本人の特質なのだろうか。沈黙するラケルをよそに田川は話を続ける。
「隆信様の元には、こうした日本人キリシタンの破壊行為が頻繁に報告されるようになった。仏門の重鎮からは一刻も早く宣教師を追放せよと突き上げがくる。仏教勢力は強いからな。その具申は無視できぬ。しかし、イエズス会の連中を追放すれば、ポルトガルの貿易船も入ってこなくなるだろう。ポルトガルが来て以来、日本の戦いは鉄砲勝負になりつつある。鉛玉や火薬が手に入らなくなれば、陸戦で龍造寺のような難敵を止めるのは難しい。隆信様の葛藤は手に取るように分かったよ。しかし事態は少しも良くならなかった。やがてキリシタンの破壊行為は、神社にも及ぶようになる。神社に偶像はない。しかし、熱狂したキリシタンにとっては、デウス以外を祈るのは全て背徳と映ったのだろう」。
「熱狂したキリシタンが示す異教徒への不寛容は、私の人生をも翻弄しております」。
ラケルの口から、思わず本音が漏れる。
「うむ。そなたの話も聞きたい。だがまずは、事の顛末について話そう」。
田川は怪我をしていた足を少しだけ庇いながら姿勢を崩す。座り直してさらに言葉を続ける。
「おぬしが夏祭りを見た宮の前。あそこで事件は起きた。十年以上も前の話だ。あそこは七郎宮神社と言ってな。古くから中国の海神を祀る場所だ。海の商いは海神の護りなくしては成り立たん。宮の前は、神の御前で取引を行う神聖な場だ。そこで行われる商いは公正明大でなくてはならん。日本人とポルトガル商人との取引も、宮の前が商談の場だった。商売に交渉はつきものだが、海神のお力であろう。いつも概ね穏便にまとまっておった」。
田川は、そこまで言うと、何かを思い出すように少し上を向く。
「しかしあの日は違った。絹の取引で日本とポルトガルの商人同士が喧嘩になったのだ。値付けに関するいざこざだ。もともと日本人の胸の内には、神社仏閣を破壊するキリシタンに対する怨嗟の念は積もっておった。そこに、商売のいざこざが発火点となり、両者入り乱れての騒動となった。町人に呼ばれて駆け付けた我々武士は、すぐに仲裁に入った。必死で説得したよ。しかし、逆上したポルトガル人達は船に引き返すと、武器を手に戻ってきた。我々武士が日本人に加担したと思い込んだようだった。そんなつもりは毛頭なかったがな」。
「宮の前という神聖な場で、納得のいかない取引を吹っ掛けられた。それが、神社仏閣を破壊されて憤怒が溜まっていた日本人の怒りに火を注いだということですね」。
「いかにも。無論南蛮商人にも言い分はあった。時化が続き航海が難儀し、仕入れに支障がでていた。品薄だから値段は上がる。それが連中の言い分だった。しかし、武器を携えて戻ってきたポルトガル人が、丸腰の町人を襲いだした。それを、武士の我々が座して見逃すわけにはいかんかった。最初は峰打ちや当て身で加減をしながら対応した。しかし、一人の町人が興奮した南蛮人に手首を切り落とされてしまった。それを見た若い侍が激高し、止める間も無くその南蛮人を斬り捨てた。そうなるともう争いは止まらん。結果的にポルトガルのカピタンを含む十数名を斬ることになってしまった。私は戦場で数え切れぬほどの者を斬ってきた。しかし、あの時ほど剣を振るうことに逡巡したことはなかった。これからも無かろう」。
田川は長い話を一気に語り終えると深く息をつく。茶碗の底に残ったぬるい湯を飲み干す。
「そのあとの顛末は私にも想像がつきます。この騒動の処分を巡って隆信様とポルトガル商人やイエズス会との関係が壊れた。そして、彼らは平戸を離れた」。
「うむ。隆信様は事件の処理に大変苦慮された。日本人を処分せねばポルトガル人は不満を抱き、彼らとの貿易を失う。しかし日本人をみだりに処分すれば領民の信を失いかねない。深慮の末、隆信様は領民の信を護ることを選んだ。日本人を厳しく処分することはせなんだのだ。神社仏閣の破壊をきっかけに抱いていたキリシタンへの不信は、隆信様自身の中でも深まっておったしな。しかし、ポルトガル商人とイエズス会はこの処置に大いに憤慨する。船長以下十人ばかりも殺されたのだからな。憤慨するのも無理はない」。
田川の言葉を受け止め、ラケルは軽く首を振る。
「しかし、銃で武装したポルトガル商人十数人をあっさり切り伏せるとは。わたしもこの地で幾度となく刀傷を見ております。しかし、ここで診る傷は、祖国やアジアで見たどの傷とも違う。傷口はぱっくりと開き、中には背骨まで断ち切られている者もおりました。どうしたらああなるのか。私には分かりませぬ」。
「鉄砲を持ってくるものもおれば、南蛮の槍や刀剣を振り回す者もいた。しかし鉄砲はあのような接近戦では役に立たん。それに、あの南蛮の刀剣は単なる飾り物だな。素人の町人相手くらいにしか役に立たん。しかし、鉄砲はやはり恐ろしい。遠くから狙われたら武士も町人もない。皆殺しだ」。
田川はつぶやくようにそういい、話を続ける。
「隆信様は、憤慨するポルトガル人を鎮めて、どうにか商いを続けたいと思った。しかし、これ以上のキリシタンの横暴を許せば仏門も臣民もおさまりがつかなくなるだろう。隆信様の葛藤は深かった。隆信様は、キリスト教の布教を完全に禁止とはせず、粘り強くポルトガル勢と話し合った。その甲斐あって、事件から数年後には、再びポルトガル船が平戸に来る話になったのだ。
しかし、今度は平戸に入港しようとしたポルトガル商人とイエズス会が対立した。結局イエズス会の意向が通ったのだろう。その船はキリシタン大名の大村の港へ行ってしまった。裏で大村が糸を引いていたのは間違いない。大いに面子を潰された隆信様は、大村に海戦を仕掛けた。そして、その荷を強奪しようとした。こちらは、商品の手付金まで払っていたのだからな。隆信様の怒りは当然だ。しかし残念ながら、奪還には失敗した。そして、平戸とポルトガルの関係は断たれた」。
そこまで言うと、田川は再び火箸で灰を刺し、燠に空気を送り込む。
「わしも、この海戦で手練れの臣下を何人か失った。一人は、わしの息子だ」。
ラケルはその言葉を、無言で受け止める。
「隆信様が、生月島の須古踊りにキリシタンの棄教を促す意味を込められたお気持ち。その苦悩。私にもよく分かります。我々がユダヤ教徒であると分かっても、お咎めなく寛大なご処置を賜りましたことの理由も」。
そこに、戸外から赤ん坊の大きな泣き声が近づいてくる。続いてロドリゴが医務室から顔を出す。
「急患だよ。赤ん坊が熱を出して、二日も下がらないそうだ」。
「分かった。すぐ行くよ」。
ラケルは姿勢を但し、畳に平伏して田川に礼を述べる。
「田川様。平戸のキリシタンにまつわる大切なお話。ありがとうございました。少し赤ん坊の様子を見て参ります。少々お待ちいただくこと、叶いますでしょうか?今度は私の話をお伝え申し上げるべきかと存じますので」。
「良い。長く話してわしも少し疲れた。貴殿の話は、時間を取ってゆっくりと聞きたい。また日を改めよう」。
田川はそういうと、提灯を手に、夜の闇の中へと去っていった。
ラケルは、赤ん坊の母親に熱覚ましの薬草を持たせ、門から見送る。ラケルの足は自然と桜の木の下に向かう。行燈を少し高く掲げる。その光に揺れるさくらの蕾を茫然と眺める。桜の蕾はわずか数刻で、またふくらみを増している。明日の太陽を満々と浴びれば、たちまち開花して咲き誇るだろう。
桜を見ながら、ラケルは胸の中で田川の話を反駁する。自分を追うカトリックの異端審問所。そこから逃げ続ける自らの人生。そして、その自分を受け入れ、生活の安寧を与えてくれた隆信。ポルトガルが日本に持ち込んだ鉄砲。硝石を積んでくれたペレイラ。そして田川の銃創。それを治癒する自分の医術。点と点が、絹のような細い糸でつながっていく。その糸は、ラケル一人の命を超えて、もっと大きな時空の繫がりを紡ぎ出す、天の織物の一筋にも思える。
ラケルは、行灯の蝋燭をそっと吹き消す。漆黒の闇がさらに深まる。ラケルはひとり空を見上げる。今日は新月である。無限の闇に浸された天穹に、まるで銀砂を散らしたかのように煌めく天の川が流れている。あの大きな川の流れは、自分をどこに連れて行こうとしているのか。ラケルには分かるはずもない。それでも、その流れの先にあるのが穏やかな湖であっても、しぶき上げる激流であっても、その一瞬を全力で生きよう。ラケルは、満点の星にそう誓う。
しかし天が、ラケルの生涯を安寧の中に留めおくことはなかった。この後、ラケルの人生を飲み込む濁流は、一人の女医者の生涯を超え、日の本の命運をも飲み込んでいく事になる。