庭の桜
天正五年。田川の負傷から六月ばかりが過ぎ、平戸は春を迎えている。まだ寒い。昨日はほんの一刻だが粉雪が舞った。王直の屋敷の庭にある小さな桜の木は、今にもつぼみを開かせようとしている。しかし、まだ少しのためらいがあるようだ。田川は、庭に出て桜の木を下から眺める。その足取りは確かで、もう怪我の影響はほとんどない。
「明日には開花するであろう」。
田川はつぶやくようにそう言う。このひと冬、田川はラケルの医院に長く逗留し、怪我の回復に全ての時間を費やした。ラケルも改めて隆信の命を受け、田川の治療に全力を注いだ。幸い、傷はほぼ完治したといってよい。田川の驚異的な生命力の賜物だろう。
「私が隆信様の庇護を受けて医院を開いてから、三回目の桜になります。この花は美しい。そして、散るのもまた早い。儚き花ですが、私はこの花が好きです」。
田川は無言でうなずき、しばしの沈黙ののちに言葉を繋ぐ。
「散るから良いのだ。咲くべき時に咲き、散るべき時に散る。それが桜の定めじゃ。しかし私はあの鉛玉では死なんかった。まだ散るべき時ではないのだろう。わしは定めをまだ全うしておらんようだ。そなたの元へ転がり込んだあの夜、空に巨大なほうき星が走っていった。周りの者は不吉といったが、私には吉兆に見えた。天もまだ死んではならんと言っている」。
「はい。不思議ですな。私もあの夜、夢を見ておりました。私に星の見方を教えた古い友人が、なにやら興奮して話をしていた。あれは、今思えば、ほうき星ことだったのでしょう」。
そこまで言うと、ラケルは言葉を切り、しばし沈黙する。そして、意を決して田川に問う。
「ところで、田川殿の定めとは、何でしょうか?」。
ラケルは努めて平静に、落ち着いた声でそういう。しかし、胸の鼓動は早さを増している。抑えきれない好奇心が災いを招くかも知れない。しかしもう、ラケルは自分の中の衝動を止めることができない。
田川はしばし沈黙の後、息を大きく吸って吐き出すと、静かな声で言葉を返す。
「わしの定めは、我が主君、松浦隆信様に尽くすことだ。田川家は代々松浦家に仕えてきた。俸禄を賜り、先祖の代から重要な役回りを仰せつかっておる。隆信様の命に従い、隆信様のご意向を叶える。そして、民の安寧のためにこの命燃やしきる。それ以外にわしの定めはない」。
ラケルは無言で頷く。田川はラケルの言葉を待つことなく続ける。
「伊万里城の戦いではな。龍造寺方の鉄砲で傷を負ったものは、ほとんど死んだ。鉄砲傷が腐り、熱に侵されて、な。助かったのはわしだけだ。そなたの南蛮医術のおかげだろう。おかげでわしは、また隆信様に尽くすことができる。ラケル殿。改めてお礼申し上げる」。
田川はおもむろにラケルに正対し、深々と頭を下げる。日本の武士が相手に示す最高の敬意である。突然のことにラケルは驚くが、努めて平静を装う。
「田川殿。礼には及びませぬ。松浦様の寛大なる庇護を受けているのは私も同様。その松浦様の重鎮である田川様のお命を救うのは、私の務めでございます」。
ラケルはそこまで言って言葉を切る。喉の奥まで出かかっている問いを必死で飲み込む。なにか平穏な会話の種がないか、しばし頭を巡らせる。その様子を一瞥した田川は、この男には珍しく、わずかな微笑みを浮かべながらラケルにいう。
「ラケル殿。なにか聞きたいことがあるようにお見受けするな。遠慮は無用だ。わたしもどこかでそなたとじっくり話をせねばと思っておった。もう三年だ。良い頃合いだろう」。
田川はそういうと、少しだけ右足を気にかけながら屋敷に上がり、囲炉裏の上にかかった鉄器から茶碗に湯を汲む。それをゆっくりと口に運びながら静かにラケルの問いを待つ。
「田川殿の洞察力には敵いませんな。このラケル、まるで赤子のように胸の内を見透かされているようです。では、不躾ながら」。
ラケルはそこでひとつ息をつく。
「お聞きしたいのは、田川殿が戦われた相手でございます。龍造寺というその敵は、なぜそれだけの鉄砲を有していたのでしょうか。ポルトガル商人達と厚い取引があるのでしょうか。私はこの地で過ごす中で、キリシタン大名なる領主が増えていると聞きました。彼らは自らも洗礼を受け、ポルトガルと活発に貿易しておるとのこと。龍造寺もまたそのようなキリシタン大名なのでしょうか」。
「龍造寺はキリシタン大名ではない。今は、長崎や横瀬浦でポルトガル船と大商いをしている大村というものが、キリシタン大名で名を売っておる。大村と龍造寺とは領土を巡って長年戦っている敵同士だ。大村はポルトガルを味方につけ、鉄砲火薬にも恵まれておる。しかし、龍造寺は陸戦において天武の才ある強者だ。大村では敵わん。恐らくわしが撃たれた鉄砲は、龍造寺が堺や雑賀の鉄砲鍛冶から買ったものだろう」。
「鉄砲鍛冶。もうそのような職能を持つ者まであちこちにおるのですな。して、その龍造寺は松浦様とも対峙しておられるのですね?」。
「いかにも。ここから二十里ほども東に離れたところに、伊万里城という城があってな。そこは先祖の代から松浦家に縁ある豪族が守っておった。ここが龍造寺に攻められたため、隆信様としては援護せねばならんかった。しかし、龍造寺を相手に迂闊に手勢を差し向けることもできぬ。平戸松浦家は海戦において龍造寺の敵ではない。しかし、城攻めでは残念だがやつらに分がある。そこでわしは、偵察と隠密作戦を命じられた。もし伊万里城が落ちることあれば、城主を平戸へ逃がせとな。しかし、わしが着いたときは既に戦場は混乱し、残念ながら城主もろとも、敵の手中に落ちていた。やむなく撤退せんとしたその時、私は流れ弾に撃たれたのだ。伊万里城だけではない。今、隣国の城は次々と龍造寺の手中に落ちておる。数年前には伊万里よりさらに東に三十里ほども離れた須古城という城が落ちた。それからわずか数年で龍造寺は伊万里まで落としてしまった。平戸に近づきつつある。松浦様の危機感は強い」。
「須古城。その響き、どこかで聞いた覚えがあります」。
ラケルは少し考えて、弥助の言葉を思い出す。
「確か、去年の夏、弥助と宮の前の夏祭りで見た踊りが、須古踊りと呼ばれていた記憶がございます。なにか関係があるのでしょうか」。
田川はその言葉を聞いて驚いた表情を見せ、ラケルの顔をまじまじと見つめて少し微笑む。
「いかにも。あの踊りは、須古城陥落で逃げ延びた落ち武者たちが、この平戸に逃れたときに始まったのだ。かの地で守られていた伝統を絶やさぬためにな」。
「五穀豊穣、大漁、無病息災を祝う踊りだと弥助から聞きました。いいものですね」。
ラケルがそう返すと、その言葉に田川の表情が曇る。両の手で茶碗を掴み、じっとその底を凝視している。ラケルは突然の沈黙に戸惑う。しかし、ここで自分が言葉を継ぐべきではない。じっと田川の声を待つ。
「うむ。弥助が言ったことは間違いではない。しかしな。あの踊りは、それだけではないのだ」。
そういうと、田川は改めてラケルを正面から見据えていう。
「わしは、そなたをもう松浦家家臣の一人として見ておる。だから話そう。そしてそれはユダヤの民であるそなたにとっても、知っておいて損はないことかも知れん」。
ラケルは無言でうなずく。周りの音は、もうなにも耳に入らない。
「須古踊りはな。数年前から平戸の各地の祭りで踊られるようになった。地域ごとに少しの特徴はあるが、それはその地に伝わる古い祭りと習合しているからだ。祖先の魂の鎮魂、そして豊作豊漁や無病息災を神仏に願う質素な祭りだよ。しかし、場所によってはもっと違う意味を持っておる。松浦様の領地に多くの島々があることは知っておろう。その中でも大きな島が、ここから西の方角にある生月島という島だ。そこはな、平戸で最もキリシタンが多い島だ。十年前にはほぼ全ての島民がキリシタンとなった時期もある。この生月島で踊られている須古踊りは他とは違う。キリシタンに神仏を思い出させ、暗に棄教を促すためのものだ。この踊りにそのような意味を込めたのはほかでもない、隆信様ご自身である」。
「隆信様がキリシタンを警戒されていることは、初めての謁見の時から存じております。その生月島の須古踊りも、その警戒の表れでしょうか」。
田川は無言で囲炉裏の上にぶら下がった鉄器から再び湯を汲み取り、茶碗に注ぐ。その椀をしばし掌の中で弄んだのち、静かに言葉を繋ぐ。
「そうだ。そしてそれは、わしがかつてキリシタンとなった事とも、それを棄教した事とも、全て繋がっておる。少し長くなるが、この屋敷の元の主である王直のことから話そう」。
そういうと田川は、平戸とポルトガルの邂逅について、語り始める。