弊社はM&Aアドバイザリーを中心としたファイナンシャルアドバイザリー事業を営んでいますが、ささやかながらスタートアップのご支援も、いわばライフワークとして行っています。その中で、起業家のプレゼンテーションをお聞きしたり、資料を拝見したりする機会があります。最近は本当にレベルが高いという印象です。これは、善意あるさまざまな専門家や先輩起業家の方々が、自らのノウハウを惜しげもなく提供する活動を地道に続けてきた結果だろうと思われます。日本のスタートアップエコ体系の確かな前進を感じます。
しかし、なかにはやはり「この資料は厳しい」。あるいは、「その考え方では厳しい」。そういったプレゼンもあります。これは特にぎーくなエンジニア、技術者出身の方に多い問題です。これはプレゼン資料の作り方の問題というよりは、ビジネスに対する基本的な考え方の問題と思われます。このコラムでは、エンジニア出身起業家が陥りがちなポイントとありたい姿について書いてみます。
冒頭のチャートは、IBMワトソン研究所が開発した「Strategic Capability Network(SCN)」というフレームワークです。 エンジニア出身起業家にありがちな問題についてポイントを端的に説明するための手段として、この「SCN」というフレームワークを紹介したいと思います。これは企業活動が顧客に提供する価値とその実現手段の関係性を整理した概念です。一般的には、ビジネス部門とIT部門の共通言語として活用するときに有用になるとされています。
注1:SCNはIBM Corporationが開発したビジネスモデルフレームワークである。
注2:吉野家の事例は、SCNの考え方を簡便に説明した例示にすぎず、提供能力や実現手段の網羅性を示すものではない。
提供価値と実現手段の2つの関係性 SCNが示す関係性のひとつは、「縦の関係性」です。つまり、ビジネスにおいて最も重要なのは、「顧客に価値を提供すること」であり、その結果として「企業のビジョンや理念」が達成されるという関係性です。「AI」や「ブロックチェーン」「優れた顧客基盤」などは、ビジネスの目的ではなく、顧客に価値を提供するための手段という位置づけになります。
SCNが示すもう一つの関係性は価値と能力、実現手段の「因果関係性」です。例えば吉野家の場合であれば、「はやい、やすい、うまい」という提供価値を提供するため、さまざまな組織能力(ケイパビリティ)を獲得しています。分かりやすい例でいえば、オーダーから30秒で牛丼を提供できる能力。この能力のうらには、店舗のレイアウトから従業員教育方法、サプライチェーンに至るまでほんとうに多くの様々な実現手段が関係しているはずです。
エンジニア出身起業家が陥りがちな点 冒頭で述べた「エンジニア出身起業家」のが陥りがちな点は、このSCNが示す2つの関係性のうち「縦の関係性」に思いが至らないということに尽きます。エンジニア出身起業家は、自身の技術について絶対的な自信を持っています。このことは本当に素晴らしいことです。しかし、ともすればそれがどういう価値を生み、だれのどのような悩み・課題を解決するか、いくら聞いてもよくわからない、ということがあります。これは少なくなくともビジネスをやろうとするのであればあり得ないことです。ビジネスとは、どのような領域であっても、誰かの課題や悩みを解決して、それによって対価を得る活動だからです。
そんなばかな、最近の起業家でそんな人いない、という指摘も聞こえそうです。しかし、実はこれは起業家側だけで見られる現象ではありません。「ブロックチェーン」しかり「AI」しかり、優れた技術はいつの時代も過剰な期待を生み、それがもたらす価値がよくわからないまま、注目度ばかりが先行することはいまでもよくあります。そして、数年してその期待値が修正されるということが社会全体で繰り返されています。このような現象は、よく「ハイプカーブ」という考え方で表現されます。我々は、このハイプカーブは、技術とそれが実現する価値の間に生じる期待ギャップとその修正の繰り返しを表すものと理解しています。もちろん期待外れで終わるものもありますが、クラウドのようにハイプカーブを経てキャズムを大きく超え、地殻変動をもたらす技術もあります。
安藤百福(日清創業者)は、80枚の鉄板を見て塩をつくることを思いついた
SCNの考え方をより端的に説明するために、ひとつの事例として、日清食品を一代で築いた天才起業家、安藤百福氏をモデルとした朝ドラ「まんぷく」のエピソードを取り上げてみます。先日の放送で、大阪の泉大津に引っ越した安藤氏は、中になにがあるかもわからずに買い取った倉庫の中で、80枚の鉄板を発見します。そして、これでなにができるかと考えます。そして、あることがきっかけで、その鉄板を使って塩をつくることをおもいたちます。
これは、SCNの考え方でいうなら、鉄板という「実現手段」が先にあって「世間で足りない塩をつくる」という提供価値を結び付けたケースといえます。SCNの関係性のひとつとして前述した、「実現手段と提供価値の因果関係」が、彼の中で結びついたといえます。
このように、「実現手段」からビジネスを思いつくことは自体はよくあることです。その方が一般的かも知れません。本コラムの趣旨も「技術からビジネスを発想することが間違い」ということでは決してありません。しかし、安藤氏が起業家として偉大なのは技術的知見や能力がありつつも、常に、「ヨノナカの課題を解決する」ことが発明家としての前提にあるところです。逆に、どんな優れた技術者でも、「社会課題やヨノナカに対する関心」が本質的にないのであれば、起業家になるべきではないと私は考えます。
課題に感心がない技術者はなぜ起業してはいけないのか
塩づくりに取り組むことを決めた安藤氏ですが、鉄板だけで塩をつくることは当然できません。これから様々な組織能力や実現手段(塩づくりのノウハウや、塩づくりの職人、販売チャネル、営業体制)を獲得して、価値の実現に向けたネットワークを構築しなくてはなりません。
提供価値と実現手段の因果関係は、相関関係とは異なり「時間軸を伴った関係性」ですから、どのような実現手段と組織能力を持てば、価値を実現できるかどうかは、結局のところ試行錯誤を繰り返すしかありません。コンサルタントが紙の上でSCNのチャートをこねくり回したところで、本当の因果関係が見つかることはないのです。どのような経営資源(そこには一番難しい経営資源である「人」も当然含まれます)を揃え、それをどのように組み合わせれば価値を提供できるのか。その因果の糸を紡ぎだすことが経営の苦しみです。技術にしか関心がないエンジニア起業家は多くの場合、この困難が「僕がやりたかったことではない」から耐えられないのです。
逆に、今はそのようなエンジニアでも、なにかをきっかけに、社会やビジネスの課題に高い感心をもつかもしれません。そして、安藤氏ようにその解決のために自分の技術力を駆使したいと心から思えるようになるならば、優れた起業家になれると私は考えます。本田宗一郎氏は、戦後の焼け野原に打ち捨てられた米軍の小さなエンジンを、自転車に搭載して動力付きにすれば。移動で大変な人々の役に立つと考えました。彼もまた、常に社会を見つめていたのです。そして、安藤氏と同じように、彼の中にはこのような視点と高い技術が同居していました。
課題意識はあるが、実現手段のない(そこを全面的に人に頼らざるを得ない)起業家より、高い課題意識と優れた技術が同居している安藤氏や本田氏のような起業家こそ、手触り感のある本当のサービス・プロダクトを創ることができる、偉大な起業家になれる可能性を秘めているのだと思います。