日本製鉄によるUSスティール買収2.1兆円は、高いのか安いのか?(2)~安全保障とレブロン基準~


日本製鉄(以下、「日鉄」)によるUSスティール(以下、「USS社」)買収が早くも新たな展開を迎えています。米国鉄鋼業界の有力な競合、クリーブランドクリフス(以下、「クリフス社」)が、対抗買収の可能性に言及しました。クリーブランドクリフスのCEOゴンカルベス氏は、「日本は中国より邪悪」といった趣旨のコメントまで発表し、対抗心をむき出しにしています。これだけ見ると日鉄は、米国政府のみならず有力な競合とも敵対し、非常に困難な状況に陥りつつあるように見えます。

■クリフス社の怒りと焦りがにじみ出たプレスリリース

 クリフス社と、代表取締役CEOのゴンカルベス氏が対抗買収の可能性(但し、日鉄が完全に撤退した場合)を発表した際のコメントを見ると、強い憤りと日鉄への対抗心が伺えます。(以下ChatGPTによる全文翻訳から一部抜粋。太字下線弊社追記)


Lourenco Goncalves会長兼社長兼CEOの発言

「今朝の時点で、Nippon SteelとU.S. Steelは自らの失敗から注意を逸らそうと必死に責任の押し付け合いを続けています。本日のアメリカ政府、全米鉄鋼労働組合(USW)、およびCleveland-Cliffsに対する訴訟は、U.S. SteelとNippon Steelが招いた災難を他者に押し付けようとする恥知らずな行為を表しています。U.S. Steelの経営陣は、個人的な報酬を得ることができませんでした。そして、彼らが常に『奉仕している』と主張していた(USSの)株主に対してひどく失敗したことが明らかになった今、その結果として短気に逆ギレしています。またしても悪い行動選択です。

Cleveland-CliffsとUSWだけでなく、この買収がもたらす国家安全保障への悪影響を認識したのは彼らだけではありません。この取引は即座に超党派の反対を招き、複数回にわたり『この取引を阻止する』と誓ったトランプ大統領を含む多くの反対を受けました。この取引が発表された直後の2023年12月19日には、当時の上院議員であったJ.D.バンス、マルコ・ルビオ、ジョシュ・ホーリーが、CFIUS(外国投資委員会)に対し、U.S. SteelのNippon Steelへの売却を阻止するよう要請し、『貿易保護は、国内生産を拡大しアメリカの雇用を創出するために外国投資を誘致することができますし、そうあるべきです。しかし、この企業買収はその目標と一致していません。外国企業がアメリカ企業を買収し、我々の貿易保護(政策のメリット)を享受することを許すことは、これらの保護が設定された目的を覆すことになります。』と正当に指摘しました。(中略)

Nippon Steelとの取引を阻止するという最終的な決定は、1年間にわたる国家安全保障審査の結果であり、国内の重要な製鉄インフラをアメリカの管理下に維持することの重要性を強調しています。中国以上に、日本は何十年にもわたり製鉄の過剰生産とアメリカへの有害な鉄鋼ダンピングの歴史を持っています。鉄鋼業界における中産階級の高給職の破壊は、Nippon Steelによる不公正な貿易慣行に起因しています。アメリカ政府は、Nippon Steelにこの買収を通じて影響力を強化させることが、経済、労働力、インフラ、防衛といった国家安全保障の重要要素に対する直接的な脅威であると適切に認識しました。

Nippon Steelが日本国内で過剰生産を行い、その結果としてアメリカ市場で有害な取引履歴を築いてきたことが、この問題の根本的な原因です。この取引が承認されないリスクは十分に認識されており、実際、David Burrittは発表日の2023年12月18日に自身の個人株式の一部を1株50.01ドルで売却しています。U.S. Steelは、全米企業による解決策を拒否し、アメリカの貿易法を回避することで悪名高いNippon Steelへの現金売却を押し進めるという誤った判断を下しました。この巨大な判断ミスを認める代わりに、U.S. Steel、そのCEOであるDavid Burritt、およびNippon Steelは、責任転嫁と法的パフォーマンスに走っています。David Burrittは、行動を重ねるごとに自身の恥をさらに深めています。

彼らの訴訟は全く根拠がありません。我々は法廷闘争に十分な準備ができており、法廷で事実を明らかにすることを楽しみにしています。(引用ここまで)


 米国を代表する企業の公式リリースとしては、ずいぶん過激な文書です。この文書には明記されていませんが、報道によれば、ゴンカルベス氏は、日鉄が中国に鉄鋼の過剰生産やダンピング(不当廉売)の方法を教えた、とも主張しているようです。彼らの主張のポイントを弊社の視点で要約・意訳すると、およそ次の3つとなります。

1. USスティールの経営陣は、株主の利益を最大化するといいながら自己の利益を追求した。
2. 日鉄は、中国企業以上に巧みに米国の貿易法の抜け道を利用し、日本製の鉄鋼製品によるダンピングで米国市場に損害を与えてきた。
3. この買収は、米国の貿易法が期待するような雇用拡大や米国での生産拡大につながらない。

 これらの主張をどう解釈するかは立場によって異なると思われますが、少なくとも日鉄は米国政府のみならず、競合のクリフス、ひいては共同買収者として裏に控えるニューコアとも対峙し、2正面、3正面の戦いに臨まざるを得ない状況になりつつあります。

■日鉄にとって、今回のクリフスの継続検討表明は、「想定の範囲内」

 しかし、この展開は、恐らく日鉄にとって「想定の範囲内」と思われます。日鉄は、バイデン大統領がこの買収に停止命令を出した直後の2025年1月6日に、米国政府を相手取って訴訟を起こしました。日本ではあまり報道されていませんが、このとき日鉄は同時に、クリフス社に対しても訴訟を起こしています。日鉄は、クリブス社に対して先にファイティングポーズを取ったのであり、それに対してクリフス社が対抗措置を取ってきたという流れになります。では、日鉄はなぜ先んじてクリフス社を訴えたのでしょうか。日鉄のプレスリリースでは次のように説明されています。


■日鉄によるクリフス社及びゴンカルベス氏及びUSW会長提訴の理由(リリースより抜粋)
 クリフス社 最高経営責任者(CEO)である Lourenco Goncalves 氏(以下、ゴンカルベス CEO)及びUSW 会長の David McCall 氏(以下、マッコール会長)に対する訴状(以下、訴状)並びに仮差止め及び迅速審理を求める申立てを米国ペンシルバニア州西部地区連邦地方裁判所に提出した。これらの被告は、重要な米国鉄鋼市場を独占するための違法な企ての一環として、クリフス社以外の者による US スチール買収を阻止するために、共謀して反競争的かつ組織的な違法活動を行った。訴状は、クリフス社、ゴンカルベス CEO 及びマッコール会長がさらなる共謀的及び反競争的行為を行うことを防止するための差止命令、及び彼らの行為に対する多額の金銭的損害賠償を課すことを求めている。


 
この訴訟は、日鉄は法人であるクリフス社のみならず、代表権を持つCEOのゴンカルベス氏個人とUSW(鉄鋼労組)のマッコール会長を相手取ったものです。かなり踏み込んだ訴訟といえます。日鉄が訴えているのは、機関としての代表取締役とはいえ、個人も対象にして損害賠償までしている点で、日鉄の決意の固さが垣間見られます。万が一敗訴すれば、日鉄は名誉棄損も含む膨大な賠償を背負うことになるでしょう。相当な証拠と勝算があっての訴訟提起と思われます。

■今後の展開次第では、今後のM&A市場全体に大きな影響がある可能性も

 このような訴訟がどのような結果に至るか、内部情報や訴訟の裏側詳細を知り得ない立場で推察することは不可能です。しかしながら、このディールの帰趨自体は、次の3つの結論のいずれかになるでしょう。

ケース1:日鉄の買収が認められ、当初予定通り完了
ケース2:日鉄の買収が当局・裁判所に認められず、クリフス・ニューコア連合が買収
ケース3:何も起きない(白紙)あるいは、まったく別の第三者による新たな買収提案

上記のケース3については、さらに細かく様々なケースが想定されるため、現時点でその帰趨を予想することにあまり意味はないでしょう。まずは、ケース1で決着するのか、ケース2で決着するのかが焦点です。それでも、決着までは場合によっては年単位の時間がかかるでしょう。

■鍵を握るのはレブロン基準。結果次第ではM&A業界に与える影響は大きい。

 このディールにおいて注目されるのは、やはりレブロン基準がどの程度重視されるかです。レブロン基準(Revlon Standard)とは、米国のコーポレートガバナンスにおいて、取締役会の受託者責任(fiduciary duty)に関する重要な判例の基準であり、企業が売却プロセスに入る際に適用されます。

 詳細は割愛しますが、その精神は、買収提案を受けた取締役会は、「最も高い価格を提示した買収候補者を最優先しなくてはならない」というものです。この基準は、1986年の「Revlon, Inc. v. MacAndrews & Forbes Holdings, Inc.」の判例に由来します。このレブロン基準の最も重要なポイントの一つは、取締役会の義務に関するものです。

■売却プロセスに入った時点で、取締役会の義務は「株主価値の最大化」にフォーカスされる。

 レブロン基準では、取締役会が買収提案を受け、売却のプロセスに入った時点で、取締役の義務は「長期的価値創造」ではなく「株主利益の最大化」になります。買収提案を拒否したい場合、取締役会は様々な理由で反対します。例えばこの買収候補とはカルチャーが合わない。リストラしかしないだろう。シナジーがない。従業員が付いてこない。などなど。レブロン基準は取締役会のこうした抗弁を基本的に認めず、「株主に対して一番良い買い取り条件を示した買い手を選定せよ」と示しました。

 これは、取締役会が反対しても、株主の利益になるM&Aは実現されるべきという立場であり、敵対的買収の理論的正当性の補強にもつながりました。1986年のこのレブロン判例をきっかけに、米国の株主資本主義はより端的に株主の利益を追求する流れとなっていきます。そしてこのレブロン基準は、日本企業に対する外資の買収などにおいても遵守されるべきとされ、特に近年のTOB案件や、アクティビストが正当性を主張する理論的支柱のひとつとなっています。

■今回の結果次第では、こうしたM&Aの潮流に変化が起きる可能性もある。

 もし今回、米国政府が日鉄の買収を否認し、結果的にクリフス・ニューコア連合が買収することになったら、それはレブロン基準に則ったM&Aといえるでしょうか。そうならないのは明らかです。少なくとも現時点での報道では、クリフス社の買収提示額は一株当たり30ドル程度であり、日鉄とUSスティールが合意したTOB価格である55ドルの6割程度にすぎません。日鉄が市場価格に上乗せしたプレミアム分をほぼ全額削った金額となります。レブロン基準に則るならば、クリフス社の買収提案は、日鉄のそれと比較して、USスティールの株主に還元されるべき価値を大きく毀損することになります。

 確かに、第三者的な目線で見れば、日鉄の買収金額は高すぎて、クリフス社の評価額の方が妥当という見方も成り立ちます。もしクリフス社が日鉄と同額での買収を実行したら、米国市場の厳しい目線を持つクリフス社の株主から、代表訴訟を起こされる可能性すら感じます。前回のコラムでは、日鉄の買収提示価格(55ドル)を、「誠実さがにじみ出る価格」と評価しましたが、裏を返せばそれは「かなり無理をしている価格」とも言えます。日鉄は、買収を成立させるために、負債を含め21,200億円(23年当時の公表資料に基づく円ベースの企業価値)を負担するだけではなく、買収後に従業員に対してリテンションボーナスを支払い、さらに追加で巨額の設備投資をすることもコミットしています。日本製鉄としては、清水の舞台から飛び降りる覚悟で纏めた投資パッケージといっても良いでしょう。

 しかし、第三者的な評価額は、レブロン基準とは無関係です。レブロン基準は「最も高く価格提示したものが買う」という原則であり、もしクリフス社による買収が想定通り成立すれば、USスティールの株主に帰属すべき価値を大きく毀損する結果となります。USスティールの株主にとってみれば、株主代表訴訟ものでしょう。

■今後の世界のクロスボーダーM&Aにも大きな影響が出る可能性

 資本自由化の錦の元、米国は自国市場での行動原理を世界の普遍的公理とすべく、布教活動を続けてきました。レブロン基準はその最たるものの一つです。もし、今回の日鉄買収が、これに反する形で決着するならば、それは米国のみならず世界の資本市場に大きな影響を与えるでしょう。米国政府自らが自国でレブロン基準に反するような決断をするならば、それを他の国で強要するのはダブルスタンダードであり、大きな反発を招くであろうことは容易に想像されます。

 レブロン基準の精神を体現してきたウォール街は、伝統的に民主党の基盤であり、端的に言えばトランプ氏の敵でもあります。トランプ氏は、レブロン基準を否定することで、1986年から続いてきたウォール街を中心とするグローバル主義との決裂を宣言するのでしょうか。それとも、ディールジャンキーというトランプ氏のもう一つの顔に焦点を当てるなら「1円でも高く買う方に売れ」というレブロン基準の考えは「メイクセンス」なのでしょうか。1月20日に発足するトランプ政権がこのディールにどのような結論を下すのかは、今後のM&A取引にも大きな影響を与えるでしょう。やはりこのディールは、私企業の取引の枠を超えて、時代の潮目を象徴する案件になり得る重要な取引といえます。

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GMDコーポレートファイナンス(現KPMGFAS)にてM&Aアドバイザリー業務に従事。バイサイド、セルサイド双方の案件エグセキューションを経験。 その後、JAFCO 事業投資本部にてバイアウト(企業買収)投資業務に従事。 また、IBMビジネスコンサルティングサービス(現日本IBM)にて、通信/ITサービス企業の事業ポートフォリオ戦略立案等、情報通信/ITサービス領域におけるコーポレートファイナンス領域のプロジェクトをリード。
2013年 IGNiTE CAPITAL PARTNERS株式会社設立。代表取締役就任。
日本証券アナリスト協会検定会員
日本ファイナンス学会会員

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