日本製鉄によるUSスティール買収2.1兆円は、高いのか安いのか?


日本製鉄によるUSスティール買収が、日米の産業界のみならず、両国の政界も巻き込んで大混乱しています。当事者同士は既に完全合意しており、現在の状況を見る限り、株主からの異論もなさそうです。もし仮に、米国政府の承認が下りていれば、このディールは2024年の半ばには、TOBを経てクロージングまで完了していたことでしょう。

 ところが、米国のバイデン政権は、「安全保障上の懸念」を懸念にこの買収に待ったをかけました。背景には、鉄鋼業界労組の意向があり、さらにその裏には、この買収を妨害したい米国の競合(クリーブランドクリフス等)の暗躍もあるようです。(クリフスの妨害については日鉄会長が自ら言及しています)。一方で、日鉄側はこのディールから撤退するつもりはなく、またUSスティール側も、事業存続のためにこの買収を成立させることが必要と訴えています。

 この案件は、新トランプ政権が、このディールにどのように接するかも含め、単なる私企業間のM&Aの枠を超えた、非常に象徴的な取引です。この案件の帰趨は、2025年以降の日米関係、引いては中国を含む世界の政治経済に与える影響も少なくないでしょう。このコラムでは、現在進行形で動くこのディールを、案件の決着が着くまで定期的にモニタリングし、分析していきたいと思います。
 

■買収金額2.1兆円(企業価値ベース)は、EBITDA倍率7倍。これは「誠意ある価格」に見える。

 まず、買収金額の妥当性について検証します。(図表1~4)。日本製鉄はこの買収に際し、負債を含む企業価値ベースで21,200億円を投じ、USスチールの発行済株式の100%を現金で取得することを目指しています。これは、USスティールの2023年EBITDA3,053億円(ドル円150円で換算)の約7倍となります。2023年12月時点でのUSスティールの市場価値(企業価値ベース)は同EBITDA倍率約5倍であり、EBITDA倍率で2ポイント、すなわち約6,000億円の買収プレミアム(市場価格に対して40%のプレミアム)となります。この買収価格に対する弊社の心証は、「誠実さがにじみ出る価格」というものです。

 2023年12月時点での米国上場類似会社の平均マルチプルは約7倍であり、USスティールの市場評価(5倍)は競合の平均値(約7倍)より低い水準です。(図表4)しかし日鉄は当時の市場価格に40%のプレミアムを加え、競合の株価水準並みの買収金額を提示しています。

■USスティールの業績は右肩下がり。但し負債は少ない。

 冒頭のグラフ図表1、及び図表2の通り、USSの売上収益とEBITDAは共に右肩下がりで、日本製鉄の3の1程度です。一方で図表3の通り、日本製鉄は2兆円に及ぶ巨額の有利子負債を背負っているのに対し、USスティールはほとんど有利子負債がなく、実質無借金とさえいえる状況です。これは、通常の会社であれば一見財務健全性が高く、評価を得られるポイントかも知れません。しかし、USスチールの事業が、鉄鋼業という巨大装置産業であることを鑑みると、そのように捉えることはできないでしょう。USスティールは、負債に見合う資産をほとんど持たず、ほぼ償却済みの古い設備で生産を続け、売上が落ち、利益が落ちている状況であることが容易に推察されます。

 

■将来の成長に赤信号が灯っている

 ここから、USスティールが成長著しい先端産業に必要な、高品質の鉄鋼材(高級鋼)を製造する能力をほとんど持たないことが推察されます。(但しUSスチールは電炉については先端的な技術と生産能力を持つ子会社を有する)。米国に残る製造業は、自動車産業や半導体などいわゆる高級鋼のニーズが強いにも関わらず、その領域におけるUSスティールの能力は限られます。一方でUSスティールは、まさに米国製造業をかつて支えてきた中心にあり、その取引先(カバレッジ)は米国のあらゆる産業に及びます。

 このような状況を鑑みると、米国の強い顧客基盤や電炉の技術にアクセスしたい日鉄と、高級材を中心とした量産能力を得て米国内での再成長を図ることで生き残りたいUSスティールの意図が非常に強く合致したことは容易に想像されます。傍目から見ても、これだけ「筋が良く見える」M&Aというのはなかなかない印象です。

 これらを鑑みると、売上も利益も右肩下がりで競争力を失いつつあったUSスティールに対して、市場価格の40%のプレミアムを乗せて買収を実行しようとしている日本製鉄の姿勢は、「誠意あるもの」と感じられます。このM&Aは「成立してしかるべき」案件といえるでしょう。

■ディール成立のキーマンは、日本製鉄の橋本会長とイーロンマスク

 では、このディールを成立させるためのキーマンは誰でしょうか。弊社の見立ては、日本製鉄の橋本会長とイーロンマスクの二人です。
 

 まず、橋本会長とはどのような経営者でしょうか。公表された情報や過去のインタビュー記事から推察するに、橋本会長は超エリート集団の日本製鉄の中では、野武士のような印象を受けます。

「鉄は国家なり」を象徴する日本製鉄は、1901年に北九州に設立された八幡製鉄(半官半民)を前身とする、日本製造業そのものを象徴する会社です。八幡製鉄の歴史をさらに辿れば、その源流は島津家が統治した旧薩摩藩(鹿児島)の集成館事業にまでたどり着くことができます。島津家薩摩藩は、いち早く西洋技術を研究し、日本で初の反射炉の製造にも取り組みました。こうした技術的蓄積が、やがて八幡製鉄の立ち上げに繋がっていきます。近代日本の歴史そのものともいえる日本製鉄は、常に時代を代表する超エリートがリードしてきました。ちなみに日本製鉄の橋本会長の出身は熊本です。鹿児島ではありませんが、集成館事業の成立と発展には熊本武士も多く関わっています。

 歴代の日本製鉄の社長はほとんどが東大出身者です。また、入社後に歩む出世コースも、人事や企画畑が多いようです。そのような会社にあって、橋本氏は一ツ橋大学出身であり、ひと昔前は傍流とされた海外事業部でキャリアを積んだビジネスマンです。WiKiによれば、上司への直言が煙たがられて海外事業部への異動となったようです。お公家企業、エリート集団のイメージが強い新日鉄ですが、この橋本氏が2019年に社長に就任すると、積極的な施策を次々と実行します。EV向けの高級鋼板の特許を巡りトヨタとの訴訟も辞さず、また2021年にはブラジルのウジミナスを子会社化します。このウジミナスプロジェクトは橋本氏が主導したとされています。(2023年に一部譲渡)。

 今回のUSスチール買収への執念や、米国政府との対峙も辞さない強い意志は、橋本氏のリーダーシップによるものが大きいのではないかと推察します。典型的な大企業病に陥っていたように見える日本製鉄が、「起業家」精神(「企業家」精神ではなく)を持つ「戦う経営者」に率いられて復活したことは、日本の大企業にとって非常に重要な示唆を持つと思います。この橋本氏がこのディール成約に向けた日本製鉄側のキーマンであることは恐らく間違いないでしょう。

■イーロンマスクは、この買収の意義が理解できる

 では、米国側におけるこのディールのキーマンは誰でしょうか。これは完全な推察・予測ですが、イーロンマスクではないかと考えられます。この案件がすでに政治マターであることは言うまでもありません。しかし、まもなく就任するトランプ大統領は、製造業の専門家ではありません。不動産という、決して増えない資産を売買することで成功してきたビジネスマンです。その根底には「ゼロサムゲーム」(誰かから何かを奪わないと勝てない)という発想があるように思われます。

 しかし、イーロンマスクは自動車とロケットで世界最高の価値を持つ製造業の経営者です。日本製鉄が持つ技術や生産能力、そしてこの買収が米国製造業にもたらす価値の意味は誰よりもよくわかるでしょう。少なくとも現時点でマスク氏に関するトランプ氏の信頼は絶大なものがあり、そのマスク氏からの進言であればトランプ氏は首を縦に振る可能性があります。日本製鉄が攻略すべき最重要人物は、イーロンマスクではないかと思われます。

■USスティールのティッカーシンボルは「X」

 そしてこれは少し余談ですが、イーロンマスク氏自身にとっても、この買収には一つの意味がある可能性があります。それは、偶然にもUSスティールの上場株式コード(ティッカー)が「X」であることです。買収したツイッター社の名称とサービス名を即座に「X」に変更した通り、マスク氏のこの名称に対する思いは並々ならぬものがあります。ウォルター・アイザックソンによるマスク氏の自伝によれば、マスク氏が1999年に立ち上げたスクエアの前身となる会社は、X.comでした。

 X.comは、スクエアに社名変更されましたが、当初から彼はX.comを決済を起点としたスーパーアプリサービスにしたいと考えていました。それから時を経てツイッターを買収した際、直ちに過激なコストカットをしなくてはならなかった中で、コストのかかる社名変更を即座に実行した背景には、彼の「X」に対する並々ならぬこだわりがあります。イーロンマスクは、買収したXを、今度こそスーパーアプリサービスにしたいと考えています。

また、彼が宇宙ビジネスを手掛ける会社は、Space「X」です。そして、彼が溺愛し、今どこにでも連れて歩く息子の名前はなんと、「X Æ A-12」です。(正式な名前ですが、読み方は判りません)。未知数を意味する「X」は、マスク氏にとって未来志向や探求精神を反映するアイコンそのものといえます。

 もし、このディールが成立すれば、USスティールは非公開となり、ティッカーコード「X」が、空くことになります。米国のティッカーシンボルの決まり方に対する知識はないため、空いたからと言って指定したり予約したりできるものかは分かりませんが、少なくともXが将来上場を目指す場合、マスク氏にとってティッカーシンボル「X」が空くか否かは決して小さくない意味を持つでしょう。

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GMDコーポレートファイナンス(現KPMGFAS)にてM&Aアドバイザリー業務に従事。バイサイド、セルサイド双方の案件エグセキューションを経験。 その後、JAFCO 事業投資本部にてバイアウト(企業買収)投資業務に従事。 また、IBMビジネスコンサルティングサービス(現日本IBM)にて、通信/ITサービス企業の事業ポートフォリオ戦略立案等、情報通信/ITサービス領域におけるコーポレートファイナンス領域のプロジェクトをリード。
2013年 IGNiTE CAPITAL PARTNERS株式会社設立。代表取締役就任。
日本証券アナリスト協会検定会員
日本ファイナンス学会会員

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