第六章-回天
丹波亀山城
安土城における宗論から三年。天正十年六月二日。時代はひとつの結節点に到達した。ここは丹波亀山城。時は子の刻。藍色の甲冑に身を包んだ明智十兵衛光秀が、四人の臣下を前に口火を切る。
「我らの敵は、毛利にあらず。本能寺にあり」。
そう言い放つ光秀の眼は、妖しく光輝いている。斎藤内蔵助利三の眼に、うっすらと光るものが浮かぶ。
「よくぞ、ご決断くださいました!」。
光秀は、なにも言わずに頷き、残りの三人を見据え、静かに言葉を繋ぐ。
「信長は朝敵なり。もう、許すことはできぬ。卑しくもわしは、我が半生を足利家に捧げ、己を練り上げてきた。武士の棟梁は、朝廷に跪き、これを支えるのがその天命。それを疑ったことなど、この生涯において一度たりともない。将軍は、大君の庇護と裁可があって初めて、日の本の民を統べることができる」。
光秀は、そこまで言うと言葉を切り、ひとつ、深呼吸をする。
「だが、あの男はなんだ!石ころを自らの御神体などといって民に祈らせ、朝廷のみに許されるべき歴の改編に口を出し、挙句には三職任官の勅旨さえ足蹴にしおった!それだけではない。馬揃えに乗じた恫喝まがいの振舞、己の城に天子様を呼びつけ、あの下品な天主から見下ろさんとする傲慢。挙句には帝の譲位を指図さえしようとしておる。あの男、日の本の王にすり替わろうとしておるぞ!」。
明智左馬助秀満、明智次右衛門、藤田伝五。三人の顔も、血が詰まった風船のように、赤く膨らんでいく。光秀は皆の目を凝視する。
「昔はそうではなかった。困窮する帝のために自ら築城して帝に献上し、朝廷を支えておった。ところが、天下布武をその手に掴みかけ、あの男は眼を曇らせよった。今思えば最初から、天子様さえ踏み台としか思っておらなかったのやも知れん。もはや、あれを止められるのは、我しかおらぬ。そして、時は今しかない!」。
左馬助はもう、あふれる涙をぬぐおうともしない。
「我は昨日、天命を受けた。薄曇りの空が突然暗くなったのだ。そしてその時、雲の隙間から覗いたお天道様は、なんと半分に欠けておった!この国の民は、太古の神々に連なる天子様が、この世を照らし続けられたからこそ、その命を繋いでこれたのだ。今、その天子様が、邪悪なものに犯されようとしておる。我、日の本のため、これを成敗せんとす!義は、我らにありか?」。
「義は、我らにあり!十兵衛様。我らの命、いかようにもお使いください!」。
藤田伝吾が震える声で応える。
光秀は、皆と目を合わせ、深く頷く。立ち上がって叫ぶ。
「敵は、本能寺にあり!」。
その言葉を放った光秀の表情に、もう迷いの影はなかった。
本能寺
東の空が、ほんの少し白み始めている。織田信長は、既に目を覚ましている。床の中から、天井を凝視している。
「ゲロ、ゲロ」。
信長は驚き、半身を起してその声の方向を見る。その目が、三つ足の蛙の形をした香炉を捉える。この寺に、古くから伝わる中国の宝物である。聞こえるはずのないその鳴き声は、しかし信長の頭の中ではっきりと鳴り響いた。
(おかしなこともある)。
胸の内で、そう呟く。床を出る。白い襦袢を着たまま、襖をあける。廊下を渡る。外に出る。井戸から水を汲む。手で受ける。顔を濡らす。空を見上げる。夜明けの冷たい大気がわずかに動いて、濡れた頬を撫でる。熱がすっと、奪われる。全身に、清らかな力がみなぎっていく。
(天下静謐、時はきた。いざ、成し遂げん)。
その時、信長の耳に、戦場で聞き慣れたあの音が鳴り響く。
「ヒュッー。シュ、シュ、シュ!」。
その刹那、右腕に激痛が走る。刺さった矢から、大鷹の羽がひらひらと落ちる。
「出会え!出会え!敵襲じゃ!」。
塀を乗り越え、門を打ち破り、鎧兜の軍勢が境内になだれ込んでくる。蘭丸が叫ぶ。
「青の桔梗!明智十兵衛!光秀謀反!」。
信長は、それを聞き、天を見上げる。
(十兵衛。そうか。十兵衛。おぬしか)。
一瞬ののち、信長は蘭丸に向かって叫ぶ。
「弓を持て!侍女共は裏から逃がせ!」。
信長はそう言い放つと、欄干を駆けあがらんとする桔梗の兵に次々と矢を放つ。矢はすぐに尽きる。信長は、蘭丸の手から十字槍をもぎ取り、迫りくる兵の刀剣を打ち払う。しかし、それはもう戦ではない。死への儀式である。
やがて信長は、一人奥へと消えていく。蘭丸が追う。
「是非に及ばず」。
それが、第六天の魔王がこの世に残した、最後の言葉となった。信長が去ってほどなく、本堂に火の手が上がる。日の出とともに吹き始めた南風が、六月の大気を巻き上げる。炎は、その風を腹いっぱい吸い込み、瞬く間に本堂全体を包み込む。巨大な火柱が空を焦がす。天下を掴みかけた男の肉体、精神、夢、野望。全てを炎が焼き尽くす。炎の宴が終わった後、そこに元の形をとどめるものはもう、何もなかった。