湖上討議
「明智様。大きな湖ですな」。
天空にそびえる天守を背にして、大手道を下ってきたラケルは、光秀に語り掛ける。その眼前には、海と見まがうほどの湖が開けている。日は高く天に上り、少しだけ西に傾き始めている。
「いかにも。琵琶湖という。日の本一の湖じゃ。この湖は、この地の漁師に恵をもたらし、稲作を支え、商人達にとっては海運の要となっておる。命の湖じゃ」。
そういうと、光秀は隊列の先頭に回り、一行を待ち構える船の前まで隊列を引き連れていく。
「ラケル殿。そなたの船よりはずいぶん小ぶりだろうが、琵琶湖にはこのくらいでちょうど良い。丸子船という。いかんせん、風が強くなってきた。坂本城へは逆風になる。しばし待たれよ」。
光秀はラケルにそういうと、船頭の元へ行く。出立の頃合いについて話をしているのだろう。ディエゴがラケルに囁く。
「南西に進むなら少し待つ方が無難だ。しかしこの夏の最中、風はすぐには止まんよ」。
湖上から吹き付ける風が、ラケルの袴の裾をはたき、パタパタと音を鳴らす。ラケルは大手門の前から振り返り、紺碧の夏空にそびえたつ安土城を、改めて見上げる。この城の巨大さ、そして山頂にそびえたつ天守の壮麗さは、ラケルがどの国でも見たことがないものだ。これを三年で創り上げたその主が今、この国の権力の絶頂にあることを、ラケルは否応なしに分からされる。
茫然と城を眺め続けるラケルに、伝令の男が駆け寄ってくる。
「光秀様より、お伝え申し上げます。この風、あと数刻で弱まる見込みであるものの、夜の航行は極力避けるべし。故に、予定通りすぐ出立するとの事でございます。どうぞご乗船ください」。
ラケルは小さくうなずくと、船に乗る渡し板に足をかける。ディエゴと田川がその後に続く。そのラケルの目線の先には、既に乗船した光秀が、少しの微笑みを浮かべながら待っている。
「ラケル殿。予定通り出発しよう。この風だ。二刻半から三刻程かかる。その間、も少しそなたと話がしたい。こちらへ参られよ」。
そういうと光秀は、ラケルを船の中央部に拵えられた簡易な屋形へと案内する。ナウ船にあるような船室ではない。しかし、雨風をよけ、茶を飲んで時を過ごすには十分な場所である。ラケルは言われるがまま、屋形の中に入る。光秀に促されるままに、ラケルは、囲炉裏を挟んで光秀の正面に座る。勿論、囲炉裏に火は入っていない。ラケルは、この国にきて苦労して体に馴染ませた正座をする。光秀はその前で鷹揚にあぐらをかき、くつろいだ様子を見せる。
「ラケル殿。そなたは女人だが、正座が窮屈ならあぐらでよいぞ。その装束なら構わんだろう。この風だと、今日の船旅は少し長くなる。寛いでいただきたい」。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」。
光秀のその言葉を受け、ラケルは素直にそれを受け入れる。このまま正座で三刻も船に揺られたら、ラケルの足は腰から下で石のように固まり、しばらく歩けぬこと必至である。ラケルは慣れない手つきで大小を抜いて脇に置くと、遠慮がちに膝を崩し、あぐらをかく。それを眺めた光秀は、満足そうに顎をなでる。
「さて。昨日の宗論。とても面白く聞いた。それ故に、さらに聞いてみたいこともある。もしかしたら、そなたも話足りぬこと、あったやも知れん。時間はある。語ろう」。
光秀は、侍女が運んできた湯のみに一口つける。
「まずは、わしが気になっておる事から話そう。そなたは昨日の宗論の最後、信長様に何かを言いかけた。しかしそれを飲み込んだ。わしにはそう見えた。信長様が、足利将軍家は打ち滅ぼした、と言った後じゃ。あの時、おぬしは何を言おうとしておったのか?」。
ラケルは、その問いに緊張を覚える。これはやはり、深入りしたくない話だ。しかし、真摯に答えねば、光秀の気を損ねるだろう。自分は今、光秀に庇護してもらう以外の選択肢を持たない。ラケルは腹を括る。
「はい。お察しの通りでございます。昨日私は、信長様にお聞きしようとしました。それは、武士の棟梁たる足利将軍を打ち滅ぼした信長様が、日本の新たな武士の棟梁、つまり新将軍になられたのか、それともこの国の新たな王になられたのか、という事でございます。しかし、私はまだこの国の形をよく分かっておりませぬ。故に、失礼があってはならないと、思いとどまった次第でございます」。
「ふむ。確かにそれは、難しい問いだな」。
「そうですか。やはり。思い留まって良かったようです」。
ラケルは、軽く頭を下げる。しかし、ラケルはこの後の展開が読めず、胸の内に不安を溜めていく。
「気にするではない。そなたが問うた事、それはまた、わしが知りたい事でもある」。
「と、申しますと?」。
「うむ。そなたの、失われた祖国の神と法、そして王と民の話。どれもわしの心に響いた。それと同時にわしは、信長様が天下布武の向こうに何を見ておるのか、また分からなくなった気がする」。
ラケルは、どう言葉を繋いで良いかわからず、ただ無言で光秀の言葉を待つ。
「そなたはあの時、足利家を倒した信長様が、新しい王なのか、新しい将軍なのか。そう聞きたかったわけだな?して、そなたがもしその問いを発していたら、信長様はどう答えたと思う」?
「はい。武士の棟梁を倒したのだから、新たな将軍になった、とお答えになるかと思いました」。
「しかし、そなたはその問いに逡巡した。そなたにそうさせたものは、なんであろうか?」。
「はい。私は日の本に来て以来、この国には太古から血を繋ぐ王族がいると聞き及んで参りました。ですので、あるいはその足利家が王家であり、信長様はそれを打ち滅ぼされたのかと。しかし、その王とは、足利家のことなのか、仏教に由来する者なのか、それともいずれとも異なる存在なのか。私は結局分っておりません。分からぬまま問うことに、危うさを感じたのでございます」。
ラケルの言葉を聞く光秀の顔に、もうくつろぎの表情はない。それは、一人の武士、一人の政治家、一人の家臣として、その生き方を模索する男の顔である。
「うむ。少し私から話そう」。
そういうと光秀は、淡々と語りだす。
「武士の棟梁は王ではない。この国には、太古から伝わる王の一族がおられる。天皇とおっしゃられる。この国は、いにしえの神話の時代に、太古の神々によって創られた。その神々の子孫が天上界からこの世に降り立ち、王族としてこの国を治めてこられた」。
「しますと、その王族の御子孫が、天皇として今も国を治めておられるのですな」。
「いかにも。天皇がおられる京都に、その中心たる朝廷がある。他方で、武芸に優れ、その力で朝廷を支えてきたのが将軍じゃ。足利将軍家は、古い時代に王家から血が分かれた、源氏という一族の末裔じゃ。しかしこの数十年。飢饉と戦で京は荒れ果て、足利の力も弱くなった。あろうことか、天子様までが困窮しておられる。このような世が、続いてよいはずはない」。
「足利将軍が、王家に繋がる血をお持ちであるならば、新たな棟梁である信長様もまた、古代の王から分かれた一族なのでしょうか」。
「・・・いや、そうではない」。
「・・・」。
「では、信長様は、なにより武芸に優れ、戦に強いという事ですな。では、王家の武力は信長様より更に強いのでしょうか。信長様は、弱い王では国を護れないとおっしゃられた。足利将軍を倒された信長様でも及ばぬほどの武力を、朝廷はお持ちなのでしょうか」。
「帝は国のため、民のため、安寧を願って祈ってくださる存在だ。武力など持たぬ。代わりに将軍が、その武で帝を護り、法を定めて年貢を徴収し、民を治める政治を担う。将軍家は、その権限を天皇に与えられて、初めて為政者として、民に認められる」。
「武力を持たぬ王家を、武家の棟梁はなぜ護り続けたのでしょうか。滅ぼしてしまえば全てが手に入るのに。そこには、我々の律法のようなものの力が働いているのでしょうか」。
「日の本の神々は、民を法で縛る存在ではない。我々の神はひとつではないしな。山にもおれば海にもおる。そして、天道の神、天照大御神が、王家の遠い祖先とされる。この世を照らす大いなる光だ。ところが・・・」。
そこまで言うと、光秀は湯呑に手を伸ばし、茶をぐっとあおる。
「三年前。信長様は足利家を打ち滅ぼした。新たな武士の棟梁として、朝廷もその信長公の力を認め、右大臣の地位を授けられた。武家の最高位といって良い。しかし、信長様は、一度は任官したその地位を、返上されようとしている」。
ラケルは、しばし沈黙する。
「光秀様。私が信長様のその真意を察するのは、難しゅうございます。信長様、光秀様、いずれもこの国の行く末に深く関わられるお方。私などの浅はかな考え、誠の理を濁らせるのみでございます」。
それを聞いた光秀は、大げさにしかめ面をし、冗談めかしながらラケルに言う。
「なにを狼狽えておる。お主に期待するのは、わしが思案を巡らせるための種じゃ。余計な心配はせんで良い」。
ラケルはその光秀の言葉を聞き、つられたように少しの笑みを浮かべる。
「承知いたしました。では、少しでも光秀様の思案の種となるべく、思うところを申し上げます。そのためにはまず、私の疑問にもう少しお付き合い願えないでしょうか」。
光秀は、そのラケルの言葉を聞いて目を輝かせる。
「なんでも聞け」。
「では。この国の形について、私は、もう少し正しく理解しとうございます。これは、平戸に着いて以来、いや、日本に来る前から、私の頭の中にあったことでも御座います」。
ラケルは、そこでひとつ息をつく。
「この国には、古代からこの日本を治める王がおられる。私はマカオでそう聞きました。その王とはなにか。光秀様のお話で、少し分かった気が致します。しかし同時に、この国には古の時代に大陸から伝わった仏教もございます。仏門は今、信長様とキリシタンの共通の敵のようです。しかし、仏教そのものはこの国に根付いてもう数百年にもなります。
そして、信長様。つまり武家の棟梁である将軍もおられます。私が生きてきた国々では、王は自ら武力を持ちました。そして、その武力は、神から授けられたものだといって民を手なずけ、法を定め、国を治めております。ところが、この日の本は違うようです。この国を創った神々のご子孫である帝は、民の為に祈るが、武力を持たないと光秀様はおっしゃられた。では、日の本の王に民を統べる力、刀でも切れぬ偉大な力を与えておられるものは、何でしょうか」。
光秀は、ラケルの言葉に小さくうなずく。屋形の壁板が、ギチギチと音を立てる。逆風に向かって懸命に檜を漕ぐ男衆の声が、水音の向こうに消えていく。
「天子様もまた、そなたらの神と同様だ。人ごときの武力や、大陸から来た信仰に打ち倒されるようなものではない。しかし、言わんとすることもわかる。我らの帝に誠の力を与えておるのは何であろう。それもまた、お主が昨日言った、民の力であろうか」。
「私も左様に存じます。私はこの国に来て、この国の民が深く先祖を敬うことに深い敬意を抱いて参りました。先祖を敬うことは、親を敬うことから始まります。親は子を愛し、正しき生き方へと導く。とりわけ幼子にとって、親は絶対の庇護者です。統治者、と言っても良い。だから子は、親を敬い、親に従う。ところがその親もまた、人の子です。さらにその親の、そのまた親も・・」。
「そうして、連綿と続く血を受け継いでいくうちに、やがて先祖は神になる。お主はそういいたいのだな?」。
「はい。そして、その血を最も古き太古の時代から受け継ぎ、そしてそれが建国の神々に連なる帝こそ、この国の形そのもの。私を平戸から護衛下さっている田川殿は、田川家が、先祖代々松浦家に重用されてきたことを、大変誇りにされております。そしてその松浦様は、その血筋が遠く王族の血縁に当たることを大変誇りにされております。祖先を敬うこの強い絆こそ、王の力の源ではないでしょうか。これはどんな剣でも断ち切ることはできず、異国の仏でも上塗りすることはできぬ」。
「うむ。お主らは、律法でデウスと繋がっておる。わしら日本人は、神々とどこかで、ご先祖様を通じて繋がっておる。それが我が国の民に力を与えておる」。
そういう光秀の表情には、口にしたことがまだ腹に落ちていない、といった違和感が浮かんでいる。
「もうひとつ、聞かせてくれ。我々日の本の民は、先祖を通じて神とつながっておる。では、そなたらの教えではそなたの先祖はどうなっておるのだろうか。もし民が神のみを崇め、祖先を蔑ろにするならば、それもまた国を危うくすることは疑いがない」。
「親兄弟、家族を敬うことは律法においても重要な掟です。しかし、もしかすると、この日の本とは、少しく違うところもあるかも知れませぬ。親といえども、もし律法を破り、神の怒りを招くような愚かな行いをするならば、子はそれを戒めるべき。なぜならば、親も子も、神の前では等しき一人のしもべにすぎませぬ。親は敬われるべきですが、絶対ではありません。我らの教えにおいて、絶対は神のみ、でございます」。
光秀は黙り込む。ラケルは、その沈黙を遮ってはならないことを知っている。軽く目を閉じ、外から聞こえる水の音に、ただ耳を傾ける。しばしの沈黙の後、光秀は再び侍女を呼びつけて、茶を入れ直すよう言いつける。そして、腰を浮かせて二言三言、なにか言葉を交わすと、また囲炉裏の向こうに座り直す。
「ところで、今更じゃが、茶はお主らの法に照らして、腹に入れても良いのだな?今夜からは坂本城で過ごしてもらう。おいおい城下にそなたの医院を開けるようにしたい。しかしそれは少し先の話じゃ。坂本城に逗留する当面の間、そなたらが食せぬものは出さぬよう、厨房に厳命しておこう。取り急ぎ今晩は、鮎料理じゃ。魚は食せるかな?」。
「光秀様。ご配慮、心に染み入ります。茶は飲めます。それに、この国の食は不思議と我々に合います。ただ、鱗のない魚は神に禁じられております故、許されるならば鱗のあるものが嬉しくございます」。
「鮎は鱗付きじゃ。川底の苔しか食わぬ魚じゃから、おぬしの口に合わぬことも無かろう。しかし、そなたらの律法、実に厳格なものだな。異国の地で護り続ける事は、さぞかし難儀であろうの」。
「はい。光秀様には少し窮屈に見えるやも知れませぬ。しかし、迷うこともまた少ないかも知れません。ある日突然、王や神を名乗る者が出てきても、つき従うべきか否かは、律法に照らせばおのずと明らかです」。
「ふむ。それはすなわち、昨日の宗論にもつながる話だ。しかし、厳格であるが故の苦難、御父上の死。いまさらながら、そなたらの苦難にはわしも心が痛む」。
そこまで言うと、光秀はおもむろに立ち上がり、屋形の壁の小さな板戸を押して、つっかえ棒を立てる。開いた窓から、小さな風が屋形の中に入り、囲炉裏の中の古い灰を舞い上げる。出立からもう二刻ほど経つ。太陽はすでに傾き、湖の陰に落ちる準備を始めている。
「では、もうひとつ聞きたい。そなたのかつての国の物語、そなたらの律法、そして、長きに渡る異国での生活。その中で、流浪の民として生きてきたそなたの眼に、この日の本は、どう映る?何に心が動き、なにが珍奇に見えるか、思うところを聞きたい」。
ラケルはその言葉を受け、しばし考える。
「では、思うところを申し上げます。驚きは、この国に着く前から始まっておりました。私は、かつてマカオの友人に、日本の事を聞きました。その時、鉄砲の話を聞きました。ポルトガルの商人が、日本の豪族に高値で売った数丁の鉄砲が、たった数年で、日本人の手で大量に作られていた、という話。そして、今では数千の鉄砲が戦に使われているという話です。私には信じられませんでした。しかし、それは本当でした。なにしろ私は、鉄砲で傷を負った者を平戸で何人も診ましたから。田川殿もその一人です」。
光秀は、その言葉を聞き、深くうなずく。
「うむ。我が国の鉄砲鍛冶は優秀なようだな。キリシタンも驚いておった。わしの家臣にも鉄砲鍛冶がおる。もし見たければ、いつか鍛冶場をお見せしよう。しかし、そなたも知っておると思うが、火薬と鉛玉はなかなか手に入らん。だから、南蛮貿易が必要じゃ」。
ラケルは、小さくうなずき、手にした湯呑の中で茶を揺らす。
「驚いた事をもうひとつ。それは、平戸で聞いた話です。松浦様も、南蛮貿易は重要と考えられておりました。ですので、キリシタンが平戸で布教することを許しました。すると、瞬く間に千人余りの日本人が改宗したそうです。私が驚いたのは、そうして改宗した日本人キリシタンが、次々と神社仏閣を襲ったという話です。彼らは仏を台座から引きずり下ろした挙句、平戸の浜にうずたかく積み上げ、燃やしたそうです。松浦公は、そうした光景を見てキリシタンに慎重な姿勢を取られるようになりました。
松浦様は、こんな話もされました。それまで、一日たりとも欠かさず、朝に晩に、小さな仏に祈っていた老婆が、キリシタンに改宗するや否や、その仏像を壁に打ち付けて壊し、中から出てきた金の粒を掲げて叫んだそうです。 ”仏にはこれほどの価値しかない”、と。その金の粒は、恐らく仏を彫った仏師が入れたのでしょう。
他国でも、ポルトガル人やスペイン人が、異国の像を打ち捨てる話はよく聞きました。しかし平戸では、改宗した日本人が、率先して熱心に、時に熱狂的に、それを行ったようです。私はその話を聞き、普段は穏やかで慎み深いこの国の人々の中に、ひとたび熱狂すると、止まらぬ勢いで突き進むという、別の面を見たような気がしました」。
「うむ。熱狂か。いわんとすることはわかる。何しろわし自身、延暦寺焼き討ちを指揮した身だ。わしはのう。キリシタンは好かん。しかし、信長様もおっしゃる通り、仏門の僧兵共もまた、道を誤っておる。だが、仏僧とそれに操られた民兵は、畏れというものを知らん。畏れを知らぬ者は、戦において強いのだ。それを討ち果たすには、普通の侍ではどうもいかん。ほとんどが仏教徒だからな。皆尻込みしてしまう。それもまた、仏僧共の狙いなのだ。困った挙句、わしはキリシタン侍をぶつけてみることにした。奴らもまた、迷いがないからな。キリシタン侍はよう働いたぞ。お主の言葉を使うなら、熱狂的に、な。
あやつらは次々と僧兵共を打ち負かした。そして、仏閣から石仏を引き倒して持っていき、嬉々として煮炊きの竈代わりに使っておった。皆、たった数年前は、熱心な仏徒だった者たちばかりだ」。
光秀はそこまで喋ると、ひとつ深く息をつく。
「して、お主はそのような日の本の民の熱狂、強さとみるか、それとも危うさとみるか?」。
ラケルは、その返答にまた、逡巡する。光秀はそれを見透かし、少しだけ苛立ちが混じった声で促す。
「わしは、そなたの腹の底からの言葉が聞きたい」。
ラケルは、光秀の鋭い視線を正面から受け、観念する。
「では、申し上げます。今お話ししたような、日本の民が時折見せる熱狂。それは時として少しく危ういものやも知れませぬ。我々ユダヤ民族は、律法に縛られております故、融通が利かぬ。しかし、神や王がある日突然、別のものにすり替わっても、それが似非ならすぐ分かる。律法に照らせば良い。
しかし、日本の民は、そうではないかも知れません。先ほど、この国では先祖がやがて神になる、というお話を聞きました。しかし、ご先祖様は、我々の神のように、食い物ひとつから休息の取り方まで、細々と指図するような神様ではないでしょう。曖昧模糊とした、偉大なご先祖様、です。もし、その曖昧模糊としたものが、ある日突然、なにか別のものにすり替わっても、気が付かないかも知れません。むしろその目新しさに熱狂し、突き進んでしまう、そういう危うさは、ないでしょうか。しかし、それは、強さの裏返しです。決して批判ではございませぬ」。
「ふむ」。
光秀は、満足げにそう呟くと、虚空を眺めながらラケルの言葉に考えを巡らせる。その顔には、なにかを思案する者の、悦びともいえる表情が浮かんでいる。
「我が国では、いにしえの時代に、朝廷が仏門の勢力にすり替わりかけたと伝わる。しかし、古の神々に連なる帝の血がそれを許さず、見事これを防がれたのだ。しかし、そなたが見るに、そういう危うさが我々の中にある、ということだな」。
「かつて、仏が帝とすり替わりかけた。やはりそういう事もおありだったのですね。しかしそうはならなかった。きっと、民の安寧を願う帝の思いが勝ったのでしょう。しかし今度は、その仏がイエズスにすり替わり、それに熱狂する者がいる」。
ラケルはそこまで言って、また口をつぐむ。光秀は、身じろぎもせず、ラケルの言葉を聞き、深くうなずく。
「仏がデウスにすり替わる。そしてあるいは・・・」。
光秀がそこまでいったとき、屋形の外から声が聞こえる。
「これほどの星空は、久しぶりじゃな!」。
その声につられ、光秀はラケルと共に外に出る。そこにはすでにディエゴと田川も居て、皆が天空を見つめている。気が付けば、琵琶湖を照らしていた灼熱の太陽は、既にその姿を湖面の向こうに落としている。強かった風が、嘘のように止んでいる。湖面はまるで水銀でできた硬い絵の具のように、ぴかぴかと黒く輝き、薄い蒼がかかった天を映し出す。その空には、白く光る天の道が、果てしない彼方まで広がっている。
「おお、これは見事じゃ」。
光秀も、感嘆の声を上げる。ラケルは湖面を眺め、嘆息を漏らす。
「そして、天を映すこの湖もまた、美しい」。
ラケルのその言葉を聞いた光秀は腕を組み、誇らしげな顔で言葉を返す。
「この湖はな。楽器の琵琶のような形をしておる。それが名の由来じゃ。その琵琶が今、星の下で雅な音を奏でている」。
そう呟きながら、光秀はただ、湖面を見つめる。
「光秀様。この国はどうして、日の本、というのでしょうか?きっと、この琵琶湖のように、なにかその名の由来があるのでしょう?」。
「日本とはな。日、出ずる国、という意味じゃ。お天道様は東から上る。そしてこの国はこの世の東にある。だから、ひのもと、日本じゃ」。
その言葉を聞いたラケルは、一瞬はっとした表情を見せる。そして、体を光秀の方に向け、その瞳をまっすぐ見る。
「光秀様。この国で驚いた事が、もう一つ増えました。私は、マカオから平戸に向かう船上で、東の海から昇る太陽を見ながら、あの先にジパングがあると、希望を胸にしておりました。ですから、この国が日の本である事、よく判ります。しかし、この地に住む人々が、自らの国を東の果てにある日の本の国、と感じとり、それを国の名にまでする。これは私にとって大変な驚きでございます。この国の人々は、太古の時代から、世界の中に日本があるということを、自覚していたという事でしょう」。
「太古の昔、ある皇太子が大陸の王に文を送った。日、出ずるところの天子、日、没するところの天子に申す、とな」。
それを聞いたラケルは、再び湖面に目を遣り、そこに揺れる星影を眺める。
「私がいた平戸は、世界に開かれたる平らかな扉、という意でした」。
光秀は、天の川のはるか彼方で、ひときわ輝く一つの星を見上げる。
「うむ。その扉の向こうから、かつて仏教や文物がやってきて、この国の形のひとつとなった。時には蒙古もやってきた。そして今度は、キリシタンやそなたがやってきた。これからは、さらに世界が近くなる。日の本もまた、大きく変わる時なのだろう」。
ラケルは無言で小さく頷くと、再び天の川を見上げる。舳先に括りつけられたかがり火が、湖面を照らす。丸小舟は、星の海を切り裂きながら、滑るように進んでいく。男衆が漕ぐ櫂の音と、その櫂が水を叩く音だけが、大気に溶け込んでいく。湖面のはるか向こうに、坂本城の灯りが揺れ動いている。