坂本城へ
「ラケル殿。昨日の宗論。誠にお疲れであった」。
宗論翌日の朝、ラケルはまだ、安土城にいた。目の前には、明智光秀がいる。ラケルと光秀の間には既に、共に信長を救うべく戦った仲間としての、不思議な絆のようなものが生まれている。
平戸を出てから、常に極度の緊張を強いられてきたラケルにとって、光秀に庇護されることは、素直にあり難いと思える。その光秀の城の名は、坂本城。大きな湖を船で渡り、半日ほどの日程だという。フロイスと了斎は、昨日の内に南蛮寺に帰ったようだ。もしかしたらもう、一生会うことはないかも知れない。
「明智様。ありがとうございます。思うが儘に口走り、わが身をさらに危うくしました。何卒、我々を庇護頂きますよう、お願い申し上げる次第です」。
「良い。あれこそが宗論じゃ。それにお館様は人の本音と建て前を恐ろしいほど見抜く方。そなたが魂の底から言葉を振り絞らねば、かえってその身危うくしたやも知れん。我が坂本城までは、船で半日ほど。しかし、今日はそれなりの人数じゃ。一日旅と心得ておかれよ。また船上で会おう。わしももう少し、そなたと話がしたい」。
光秀はそういうと、足早に去っていく。それを見届けたディエゴがラケルに近づいてきて、何か言おうと口を開く。昨日から、ディエゴとはまだ言葉を交わしていない。間違いない。愚痴を聞かされる。ラケルは、機先を制するべくその言葉を遮る。
「ディエゴ。言われなくても分かっている。馬鹿なことをした。しかし、仕方がないではないか」。
ラケルの言葉にディエゴは首を振る。
「いや。お前はよくやったよ。あそこでお前が取り繕い、キリシタンに媚びへつらったところで、物事がよい方向に動くことはない。結果的に、聡明なる信長様のご判断で、我々は明智様に庇護頂ける。これは、まずもって最善の結果だ。アロンもきっと、立派に宗論をやり遂げたお前を誇らしく思っているはずだ」。
アロンとは、死んだラケルの父の名である。そしてディエゴにとっては、亡き親友の名だ。ディエゴに小言を言われると身構えていたラケルは、その言葉に心を弛緩させる。それでも、口をついて出てくるのは、あくまでへらず口だ。
「馬鹿か。お前にそんなことを言われると、また調子が狂う。気に食わんな。父があれを聞いていたら、相変わらずのお転婆だとあきれただろうよ」。
しかし、そういうラケルの顔にも、平戸を出てからほとんど見せることがなかった、自然な笑みが浮かんでいる。そうだ。やれることはやった。この後はまた、運命に身を委ねるしかない。ラケルはそう考えると、手慣れた手つきで荷物を纏め、短い旅の支度をする。早ければ夕方には、坂本城に着けるかも知れない。
京に入って以来、初めてまともに眠れる日になると良いが。もし叶うなら、骨の髄までしみ込んだ緊張と疲れを、湯にでも浸かってゆっくりと解きほぐしたい。ラケルは、この国で、湯に入ることを覚えた。そして、それが心身に驚くほどの効果をもたらすことも、医者として身をもって知っている。ラケルがそんなことを考えていると、使いの者が小走りにやってきて出発を告げる。
「では、大手道を降りていただき、大手門から丸子船にお乗りくだされ。坂本城へ参ります。但し、ラケル殿は目立ちます故、光秀様よりこれをお召し頂きたいとのこと」。
そう告げる者の横に、小姓が男物の装束を抱えて立っている。藍色のその装束には、桔梗の紋があしらわれている。そしてその上には、ご丁寧にも大小までが添えられていた。