宗論その壱 イエズスはメシアか
「それでは今から、宗論を始める。発言を許すのはラケル殿、フロイス殿、了斎殿の三名だ。他の者はしかとこの宗論を受け止めよ。各々の受け止めはまた後日、この信長から聞くつもりだ」。
ラケルが信長に相対して十日後。同じ謁見の間で、信長がそう宣言する。オルサンティの血が染みついた畳や襖はすでに全て新調され、あの凄惨な暴力の痕はどこにも残っていない。それはただ、あの場にいた者の心に刻まれているのみである。
「では最初の題目だ。イエズスは、神か否か」。
そう切り出した信長の目線の先にいるのはロレンソ了斎とフロイスである。信長は二人に問いかける。
「十年前の宗論。わしはよく覚えておる。日乗上人との宗論において、おぬしらは仏教の根幹にある四大、すなわちこの世の全てが地水火風から生じ、そして最後は四大に還るという考えは、まやかしだといった。そして、おぬしらが信ずるデウスは、この世の森羅万象をつかさどりながらしかし形を持たず、目にも見えぬものと申した。
ところが、だ。ラケル殿の話では、おぬしらが信奉するイエズスという伴天連は、デウスの化身だという。イエズスはキリシタンの坊主であろう。目に見える人間ではないか。それともイエズスは人ではないのか。如何なる根拠をもってそのイエズスがデウスの化身であるといえるのか。しかと説明せよ」。
信長はそこまで言うと、今度はラケルのほうを向いて話しかける。
「まずはわしのこの問いから始めたい。ラケル殿。よいか」。
ラケルは信長に平伏し、畏まって答える。
「信長様のご提起。きわめて本質を突いたものかと存じます。私に異論があるはずもございません。しかし、もし私からも加えさせていただくことが叶うならば、少しの発言をお許しください」。
「なんでも申せ。それが宗論じゃ」。
ラケルはその言葉を聞くと再度信長に深く頭を下げる。
「我々ユダヤ人とキリシタンが、共にデウスを神として戴くことは前に申し上げた通りです。そして、キリシタンがイエズスと名乗る僧侶を神の現れと考え、そして我々ユダヤ教徒はそうは考えぬことも、お伝えした通りです。しかし、この話には前日談がございます。
まず、ご承知頂きたいことは、イエズスはユダヤ人だということです。イエズスは、祖国イスラエルの北にある、湖のほとりで育ったユダヤ教徒でした。しかし、彼はその教義に疑問を持つようになります。折しもこの頃、我々ユダヤ民族は国こそ失っておりませんでしたが、常に困難に晒されておりました。内紛で国は分裂し、多くのユダヤ人が捕囚となったような時代もありました。そういった中で、我々ユダヤ人は、その困難の中でも、デウスの掟を守り続ければ、いつか救い主が現れると考えるようになります。
この救い主のことを、我々の言葉ではメシア、あるいはキリスト、と申します。但し、我々の教えでは、いつか現れるであろうメシアは、偉大なる古代のイスラエル王ダビデの血を引くもので、人間です。神の使命を帯びて現れる予定ですが、神ではありません」。
信長は、ラケルの話をそこまで聞くと、その目を爛々と光らせながら笑みを浮かべる。
「ふむ。皆まで申すな。後はわしが明察して見せよう。そのイエズスが、お主らユダヤの教えを批判するうちに、自分がそのメシアであると名乗ったのだな?いや、お主はこないだ、周りの者が祭り上げたと言うておった。つまり、そのイエズスこそメシアであると、周りの者が騒いだわけだ」。
「ご明察の通りでございます。少なくともそれが私の考えです。当時のわが祖国は巨大な帝国の属国となっておりました。帝国から派遣された属長は、内乱を恐れてイエズスを処刑しました。その後のことは、私の口から申し上げると公平を欠くでしょう。了斎殿、フロイス殿からお聞きいただきたく存じます」。
「相分かった。さて、フロイス殿。そなたの出番だ。宗論の題目を少し変えよう」。
信長はそこまで言うと、言葉を切り、深く息を吐く。そして、おもむろに左手に持つ扇子を開くと、それを高々と頭上に掲げ、宗論の開始を告げる。
「イエズス坊主はキリストか、否か。さあ、答えよ!」。
ルイス・フロイスは、それまで身じろぎもせず、信長とラケルのやり取りを聞いていた。しかし、それが進むにつれ、当初その瞳に浮かんでいた畏れ、焦り、苛立ち、それらは全て消え失せる。代わりに落ち着きと確信をその目に宿している。
イエズスがキリストか?そのような馬鹿げた議論を我々に吹っ掛けてくるとは!我々キリシタンは、それを信じぬ哀れな者どもを、もう千五百年、救い続けてきたのだ。
信長公の激高を買わないよう、言葉を選ぶ必要はある。しかし、気の毒なこの邪教の徒を、この場で見事イエズスの教えに導くことには、とてつもない意義がある。
この女医者を、ここで福音に帰依させることができれば、信長殿もイエズスの真理を目の当たりにすることになる。それは、苦戦が続く日本での布教における、決定的な転機にさえなるやも知れぬ。やって見せる!
フロイスは、腹の中でそうつぶやくと、静かに口を開く。
「畏まりました。信長様。イエズス様は、救世主、すなわちキリストであり、神そのものであります。それを説くことができねば、私はキリシタンではございません。まず、ラケル殿が申し上げたことから始めましょう。
ラケル殿は、イエズス様が古代帝国の者に殺されたと申しております。しかし、そのように仕向けたのは、あなた方ユダヤ人ではありませんか!あなた方はイエズス様の言葉が真理をついておることが恐ろしかった。だから、ローマに殺させたのです!失礼。ローマとはラケル殿がいう帝国のことでございます。そしてなにより、イエズス様が神の現れである証左として、その悲惨な磔刑後、この世に復活されたのでございます。イエズスが人であれば、死したのちに復活することなどあり得ませぬ!」。
すかさずラケルが反論する。
「復活を見た者は本当におりますのかな。見たというのは、みな内輪の者ばかり。周りの信奉者たちがそう騒ぎ立てたに過ぎない。あるいは信奉のあまり幻を見たやも知れぬ。あなた方は、死人が生き返るなどという話を触れ回り、それを信じぬものは地獄に落ちるなどという。そなたらの教えこそ危うい!
そもそも、イエズスが本当にメシアなのであれば、この世界のすべての者は、既にあらゆる苦しみから解放されているはずだ。しかし、この世の人々はいまだ艱難辛苦にのたうち回っておる。そのこと一つを取っても、イエズスはキリストではあり得ない」。
「愚かな!律法解釈の海に溺れ、誠を見る目を閉じてしまうから、イエズス様の復活と昇天の真実も見えず、イエズス様が語った本当のデウスの言葉も理解できぬのです!」。
「あなおかし!神は絶対にして永遠。不可分にして不可視。人の肉を借りてこの世に現れることなどない!神が人の肉を借りて形を得たら、それはもう偶像ではないか!そして、福音などといって人が勝手に神の言葉をひねり出し、不変の掟として授かった律法を蔑ろにする。まして、文字が読めず、従って律法を紐解くこともできぬ民に、死人の生き返りの話を信じ込ませるなど、もってのほか!律法は、片言節句の改変も決して許されぬ掟だ!ところがあなた方は、イエズスはこの世の人の全ての罪を被って死んだのだから、もはや律法は守る必要がないなどという。日々面倒な律法を守らせていたら、さぞかし信者を増やすのにも難儀するでしょうからなあ。嗚呼、なんと都合の良い話!
それだけではない!そなたらは、イエズスが水を葡萄酒に変え、石ころをパンに変え、ガリラヤの湖面を歩き、病で死んだ娘を生き返らせたなどと触れ回る。そして、イエズスが起したそのような奇跡を信じることができない者は皆、地獄に落ちるという。我に言わせれば、そのような奇天烈な話、信じる方が無理というもの!
しかし、あなた方は実に巧みだ。美しい教会に響くオルガンの音。それに重なる無垢な少年たちの可憐な歌声。ステンドグラスから差し込む美しい光。字を知らず、聖典が読めぬ市井の民に、奇跡を信じ込ませる巧妙な仕掛けの数々。実にお見事!しかし、我らユダヤ民族には律法がある。故にそのようなまやかしには決して騙されぬ!」。
「イエズス様の起こされた素晴らしい奇跡の数々を信じられぬ、そなたの哀れな心こそ病んで居る。だから救われないのだ!そなたは医者として少しは優秀らしい。しかし、人の魂と生死を裁くのはこの世でただひとつ、デウス様である!そなたは患者を自分で治したと思い込んで居るやも知れぬが、結局はデウス様の思し召しにすぎぬ。おぬし、自らの知技を過信するあまり、偉大なるデウス様の力を軽んじておるのでは?イエズス様が起こした奇跡が信じられぬなどというその不遜な態度に、それが現れておる!人は、奇跡を信じるからこそ、大海を恐れることなく漕ぎ出すことができる。前に進むことができるのだ!」。
それまで無言で二人の宗論を聞いていた信長の表情が、にわかに険しくなる。
「ふむ。フロイス。今のは少しばかり聞き捨てならんぞ。今日は宗論じゃ。不敬さえなければ、わしはお主を殴ったり、ましてや斬り捨てたりはせん。しかし、わしはラケル殿の医術でこの命助けられた身じゃ。そなたは、そのデウスが、イエズスが神の現れとは思っておらぬこの者を、わざわざわしの元に遣わして、この命を助けたというのか」。
「信長様。ご無礼がありましたら深くお詫び致します。しかし、その通りでございます。デウス様は、この女医者に信長様のお命を救う手伝いをさせることで、このような対話の機会を与えました。気の毒な者の眼を開く機会を、神がご用意下さったのでしょう」。
それを聞いた信長は、なにも言わずに下を向き、頭を搔きながら畳を見つめている。その手には、瀟洒な狩野絵が描かれた扇子が、閉じられた状態で握られている。信長は時折、それで自らの頭の裏を、ポンポンと叩く。
「ふむ。では、もう一つ聞こう。もし、おぬしらがこの南蛮医者を見つけることができなかったとしよう。それでもなお、この信長を治せと命ぜられたらば、どうした?おぬしもイエズス坊主と同じように、奇跡を起こせるのか?その奇跡で、わしを治したのか」。
フロイスは、動揺もせず、狼狽もせず、淡々と答える。
「私は、デウス様の精霊宿りし者ではございませぬ。奇跡は起こせません。デウスの精霊を宿し、この世で奇跡を起こすことができるのは、我らカトリックの頂点におられます教皇様、あるいは聖人のみでございます。しかし私は、信長様のご無事を、デウス様に心より祈り申し上げました。今ここで信長様とお話できておりますことは、その祈りがデウス様に通じた証、と信じております」。
それを聞いていた謁見の間の臣下達の間から、再びのどよめきと、そして戸惑いの声が沸き起こる。
「なんじゃ。結局すべてデウスへの祈りか。それでは比叡山の糞坊主共となにも変わらんではないか。わしの父上が病に倒れた時、仏門の阿呆共は雁首揃えて神仏に祈れといった。そして、大層仰々しい風体でおかしな儀式を繰り返し、ひと月は祈っておったよ。しかし父上はあっけなく死んだ。あれ以来わしは、祈りなどというものは信じておらん。それになんじゃ、その精霊宿りし聖人とは?イエズス坊主以外にもその奇跡とやらを起こせる人間がおるのか。精霊が宿る人間などいうものもまた、お主らが忌み嫌う偶像ではないのか?形あるものなのだからな」。
「イエズス様も、聖人も、偶像ではございません。父なるデウス。子なるイエズス。そしてデウスの精霊。これらが一体となって、神そのものなのでございます」。
それを聞いた臣下の間から、再び明らかな戸惑いの声が沸き起こる。
「フロイス。ここにあの日乗がおらなんでよかったのう。奴は、数年前に死んでしまった。もし生きて今日ここにおったら、あ奴はまた、わしの刀を振り回して言ったであろう。その聖人の腹、掻っ捌いて、精霊とやらを見せてみろ、とな」。
そこまで言うと、信長は手元の湯飲みを取り、一口茶を飲んで喉を潤す。
「わかった。おぬしらは、とにかくそれを信じておるのだな。それをとやかく言うことは宗論の目指すところではない。但し、一つだけ言っておこう。わしを救ったのは伴天連の妖術でもなければキリシタンの念仏でもない。この女医者の日々の鍛錬、自己研磨、実践の賜物じゃ」。
信長のその言葉の前に、フロイスはなにも返さない。その様子を確認した信長は、今度は隣で無言を貫いてきたロレンソ了斎を見据える。
「了斎。お主の言い分も聞いておこう。お主は目が見えぬ。従ってフロイス殿が首からぶら下げておるロザリオも、南蛮寺の女人像も、自らの眼で見ることはできんじゃろう。しかし、お主は日本人でありながらも、イエズスの教えを深く信じておる。そのお主は、今の話をどう聞いた。遠慮はいらん。思うところを言え」。
信長のその言葉を受け、ロレンソ了斎は小さな、しかしはっきりと通る声を返す。琵琶法師としても、キリシタン伝道者としても、長く人の前で話をしてきたこの男の声は、小さくても不思議と人の心に届く力を持っている。
「信長様。私のような下級のものにも発言の機会を賜り、恐悦至極に存じます。正直に申し上げます。私は、ユダヤの神が不可視、不可分であり、かつ絶対で永遠であるというラケル殿のお話にとても驚きました。それは、私が信ずるデウスとなんら変わりがございません。ラケル殿は、我々の神とユダヤの神は、同一であると申しました。私も誠にそのように思いました。
イエズス様が神の現れか否か。これも私は、心からそのように信ずるものでございます。そのようなこと、わたしとっては考えるだけで罪です。しかし、私はキリシタンとしてもう長く生きておりますが、フロイス殿のように、聖職者として本部の教育を受けた者ではございませぬ。従いまして、デウス様、イエズス様、そして精霊において、その一体なること、正しい教義に基づく宗論ができるか心もとない者でございます。これについてはフロイス殿にお任せしたい。
その上で、私がラケル殿にお聞きしたいことを一つ、正直に申し上げます。それは、神の掟、あなたの言葉でいうなら、律法について、でございます。私は盲目で、字も読めません。ラケル殿は、神の掟は律法として成文化され、それは片言節句の改変も許されぬと言われました。であるならば、目が見えず、文字が読めない私は、永遠に神の真理に触れることができないのでしょうか。また、瞳に光を与えられた者は、律法をその字面だけなぞり、守ってさえおば、あとは何をやってもよいのでしょうか?イエズス様はそのようなことはおっしゃられておりませぬ。愛と公正を心に刻み、清貧を恐れず、寛容の精神を養い、人を慈しみ、自らの心に従って赦せ、と説かれております。
私のような盲目の者はもちろんのこと、人は、全ての律法を護り続けることは、困難でございます。あなただって、この日の本で全ての律法を守り切って生きているとは、きっと言えないでしょう。勘違いなさらないで頂きたい。それを責めているのではありません。人は、どれほど努力しても、律法を完全に守り続けることなどできませぬ。必ず破る。生きていく中で、うつろいゆく世相の中で、破らざるを得ない。それに抗するならば、律法の解釈を、ひたすら塗り重ねるしかないでしょう。
そして、まるでラッキョウの皮のように、解釈に解釈を貼り重ねていくうちに、やがて人は、その芯にあるこの世の誠が見えなくなるのではないでしょうか。それでは人は、永遠に罪を犯し続けることになってしまいます。禁断の実を食してしまった時から積み重なった、そういう愚かな人間の全ての罪を背負って、イエズス様は殉死されたのであります。人は、律法を護るから救われるのではございません。全ての人の罪を背負って、その死で贖罪をなされたイエズス様こそ救い主、キリストであり、その存在とそのお言葉、すなわち、福音を信じることでこそ皆、救われるのです」。
「認められませぬな、了斎殿。あなたは、目が見えず、字が読めぬものは律法を護れぬという。しかし律法は、それを護るべく全霊で実践するその行為にこそ意味があるのだ。読めないものは聞けば良い。我がユダヤ民族は字の読めぬ幼子も、学びの機会無きものも、そなたのように目が見えぬ者も、律法から遠ざけたことはない。そもそも律法の多くは、元は口伝によるものだ。
行動と実践で神への隷属を示すことを放棄し、ただイエズスが救い主だと信じさえすれば良い、そしてそれを信じぬ者は皆、地獄に落ちる。そんなことをいうならば、この日の本の人々はどうなりましょう?この国に千年も暮らしてきた人々は皆、イエズスがメシアかどうかなど、考えもせず生き、そして死んでいったでしょう。私はこの日の本に暮らしてきた先祖代々の人々が、イエズスの福音を知らなかっただけで、今、地獄で苦しんでいるなどとは思わぬ。私が平戸で出会った日本の人々は皆、親切で慎み深く、思いやりにあふれた人々でした。そなたらの言葉を借りるならば、彼らこそ神に愛されるべき人々だ。
さらにいうならば、イエズスをメシアとして信じさえすればよい、などという後講釈を吹聴したのはそもそもパウロではないか。そなたらの信仰は、イエズスの教えですらない。そなたらの信仰は、パウロ教である。父は、イエズスがキリストだと認めなかっただけで、生きたまま火に焼かれて死んだ。私の父は、パウロ教に殺されたのだ!」。
つい先日、信長との間で、聡明で理知的な言葉のやり取りを交わしていた南蛮の女医者が見せる激しい感情の爆発に、列席する歴戦の猛者たちも、魂を震わせる。しかし、激しい言葉を了斎に浴びせるラケル当人の頭の中は、本人も驚くほど冷静である。そして、激しくまくし立てている自分を、冷静な目で眺めているもう一人の自分がいる。そのもう一人が、胸の中でつぶやく。
(全く私も良くやるよ。いまさらここでキリシタンを論破したところで、何の得があるというのか。感情を制御できない私を見て、信長様はどう思うだろうか。ディエゴなんか、びびって小便でもちびりそうな様子ではないか。畳の上で小便を漏らすのだけはやめてくれ。我々の沽券に関わる)。
しかし一方で、激高しているもう一人の自分が、奇妙な高揚感に包まれていることもラケルは感じ取っている。自分がどれほど抑圧され、鬱屈した思いを抱えていたのか。これを開放する場を与えてくれた信長に、私は感謝しなくてはいけないのかも知れない。この一時の恍惚と引き換えに、この先どれだけの苦難が待ち受けているのかは分からないが。胸の中でそうつぶやくラケルの前で、信長が顔を紅潮させて口を開く。
「これぞ宗論!宗論とは魂のいくさじゃ!槍や刀は使わずとも、その思うところの信念と信念をぶつけ合う!フロイス殿、了斎、そしてラケル殿。皆、あっぱれといおう。今、わしの脳髄は興奮で煮えたぎっておる!」。
そういうと信長は、深く息を吐く。
「ここで、一度総括しよう。わしはこの宗論で、異国の神の話に優劣やら勝敗やらをつける気は毛頭ない。しかし、わしが思うた事を申すならば、理はラケル殿の主張の方にあるやに思うた。しかし、フロイス殿らが信ずるキリシタンの教え。その力の源も分かった気がする。イエズスを神の現れと信じる、ただただ、信じる。信じる者のみが、救われる。理屈抜きで信じる事こそが、おぬらの力の核心と見た。それこそが、死をも恐れず大海を渡り、二年もの月日をかけてこの国に来た力の源じゃ。わしは今日、ようやく合点がいった」。
そこまで言うと信長は閉じていた扇子をおもむろに開き、その扇子をフロイスに向けて言葉を続ける。
「故に、為政者として言っておかねばならんことがあることも分かった。お主らの信じぬく力。やはり使える。とりわけ、道を誤った僧兵共にぶつけるにはうってつけじゃ。それに、南蛮貿易は必要じゃ。キリシタンの布教については引き続き止めはせん。但し!」。
そこで言葉を切り、狩野絵巻の扇の向こうからフロイスを見据えるその目が、にわかに第六点の魔王のものと化す。
「もし、おぬしの国の者らがその信仰を操りてこの国の民をたぶらかし、刀剣を取ってこの信長に弓を引かせるような行いを計ったならば、おぬしらは全て、皆殺しだ。その信ずる力を用いてこの国盗ろうなどとは、ゆめゆめ思うなよ。お主らキリシタンの信仰の中には、無限の拡大を求めて止まぬ、激しい渇きがある。もしその力で、この国盗らんとするなら、デウスもろとも、このわしが滅ぼす。比叡山と同じようにな」。
(比叡山と同じように)。
その言葉を聞いたフロイスは、激しい動悸に襲われ、全身を震えさせる。あの焼き討ちの凄惨さは、仏門の徒を敵とみなすフロイスでさえ、悪魔の所業と慄いた。その信長が皆殺しというならばそれは、言葉通りの皆殺しである。解釈の余地は、ない。
「デウス様に誓って、そのようなことはございません」。
たった一言、フロイスはそう言葉を振り絞り、あとは沈黙を貫く。フロイスの脳裏に、信長と初めて会った日の事が蘇る。築城現場で女人に狼藉を働いた者が、あっという間に信長に斬り倒され、その血飛沫が日の光に煌めいたあの光景。フロイスは片時もそれを忘れたことはない。フロイスのその様子を見定めた信長は、小さく頷くと再びラケルを見る。
「さて、ラケル殿。わしは、そなたが信ずるユダヤの教えについて、もう少し聞きたい。よいか」。
「私がお答えできることであれば、喜んで」。