第五章-邂逅
織田信長
「改めて名を申せ。どこから来た?」。
ここは、琵琶湖を見下ろす安土山。いや、それはもう、山とは言えない。一人の男が、わずか三年ばかりで、小山を丸ごと巨城へと変貌させた。城の名は安土城。その本丸三階に広がる謁見の間。ラケルは今、そこで城の主と対峙している。ラケルの全身を、恐怖とも、畏れともつかぬ感情が支配する。これは本当に人なのか。ラケルの体は男の前で硬直し、身じろぎもできない。
医者という生業の故に、ラケルはこれまで多くの王や指導者に会ってきた。ポルトガルで、ゴアで、マラッカで。しかし、このような気を放つ男は一人としてなかった。その男の華奢な体と、色白の風体から放たれる、抗しがたい妖気がラケルを覆いつくす。そして、一つのことを直感させる。
この男の前で偽りを述べることはできない。それは必ずや自分を破滅へと導くだろう。ラケルは覚悟を決める。
「織田信長様。私は、ラケル・ヌニュス・デ・サンタンヘル、と申します。ポルトガルのヴィゼウという町で生まれました。そして、インドのゴア、マラッカを経て平戸に流れ着きました」。
「なぜ来た?」。
「逃げて参りました」。
「何から逃げてきたのだ?」。
「キリシタンからでございます」。
「なぜキリシタンは、お主を追う?」。
「私が信ずるユダヤの教えは、彼らキリシタンにとって邪教のようです。故に我々は、追われ続けてきました。彼らは我々の事を、勝手に悪魔と呼び、恐れておるようです。それが、逃げてきた理由でございます」。
その言葉に信長は、破顔して答える。
「ほう。このわしも、三好の馬鹿共や比叡山の腐れ坊主共からさんざん悪魔と罵られてきたぞ!わしは第六天の魔王じゃ。そちと我は同じ部類か。わははは!」。
ついそこまで、触れるだけで斬られそうなほどの殺気を放っていた男が突然、破顔満面となり大声で高らかに笑いあげる。ラケルは突然のことにどうしてよいかわからず、ただ平伏する。ひとしきり笑った後、信長は平静を取り戻し言葉を続ける。
「気に入ったぞ。問われたことのみを的確に返すその聡明さ。しかもそれを慣れぬ言葉でな。愚鈍な者ができることではない。愚鈍な奴ほど余計な言葉をぐだぐだと連ねる。わしを救ったのは悪魔ではない。有能な南蛮の医者だということだ。ラケル殿。改めてその献身に礼を致す」。
信長はそう言って、ラケルに深く礼をする。それを見た周囲の家臣達が、すかさず畳に額を擦り付けんばかりに平伏して続く。その中には、光秀の姿もある。ラケルも突然の礼の言葉に混乱する。しかし、努めて平静に言葉を返す。
「私は自分の仕事をしました。しかし、生を掴まれたのは信長様ご自身でございます。明智様より、信長様は日頃から心身を鍛錬し、暴飲暴食を忌み、摂生を心掛けておられるお方とお聞きしました。信長様の日々の鍛錬が、命を繋ぐお力の源になられた事かと存じます」。
それを聞いた信長は、小さく、しかし満足そうにうなずく。そして、横で控える光秀を眺めながら言葉を返す。
「嬉しいことをいう。いかにも。わしは天下布武の大事業を成し遂げるためには、なによりもこの心身がまず、強く健やかでなくてはならんと確信しておる。まあそのために、未だにわしと相撲を取らされる十兵衛などは、辟易としておるようだがのう」。
そういうと、信長の臣下たちの間から少しの笑い声が漏れる。にわかに注目となった光秀は、苦笑いをしながら、短く言葉を返す。
「滅相もござりませぬ。この十兵衛、信長様の強靭なるお体の鍛錬にほんの少しでもお役に立てることでしたら、恐悦至極に存じます」。
「はは。おぬしと相撲をとっても我が心身の鍛錬には役立たぬ。しかし、この度のお主の働きは刮目に値する。はるか西方の、九州平戸にひっそりと暮らして居ったこの南蛮医を、わずか十日ほどで見つけ出し、安土まで連れてきてわしの治療にあたらせた。その働き、あっぱれであった。これには南蛮寺の了斉殿ら、そして平戸の衆の働きもあったと聞く。そなたらにも礼を申そう」。
信長は、ラケルから遠く離れて控えていた、了斎、フロイス、オルサンティ、そして田川に目をやり、ねぎらいの声をかける。田川の横には、ディエゴも控えている。その熊のような体を無理やり平伏させて縮こまっている姿は、いささか滑稽だ。しかし、本人は緊張の極みの中にいる。生きた心地がしていない。
この日からさかのぼること二十日程前。オルサンティは豊後でフロイスを捕まえた。そして、共に豊後の村々を訪ねてアルメイダを探した。しかし、七日のうちに彼を見つけることはできなかった。アルメイダはその時、深い山間の村々に伝道の旅に出ていたのである。二人は、アルメイダ探索を打ち切って急ぎ京に戻った。その時、ラケルは既に了斎に伴われて上洛していた。そして、光秀に伴われて安土城に入城。全霊を注いで信長の治療に当たっていた。 信長の言葉に、ロレンソ了斎は平伏して返す。
「信長様。我々は、まさに奇跡のような偶然の連続により、この南蛮医者を見つけ、連れて参ることができました。これもまた、デウス様の思し召しでございます。そして、ラケル殿を庇護しておられた平戸松浦藩領主、松浦隆信公のご助力なければ、ラケル殿を連れて参ることは叶いませんでした。隆信公のご高配につきましても、信長様のお耳に入れさせていただきたく存じます」。
「ふん。お主らはなんでもデウスの思し召しだな・・・。まあ良い。松浦隆信殿のことは頭に入れておこう。毛利を討伐すれば、その次はいずれ九州だ。松浦家のことは、悪いようにはしない」。
ラケルはその言葉に心底から安堵する。遠くに控えて平伏している田川に思わず目線をやりたくなる。しかし、ぐっとこらえる。
「ところで、ラケル殿よ。今回のわしの症状、改めてどう見る。十兵衛の話では、お主はわしが毒を盛られたと見立てたとのこと。しかし、わしは用心深い。当然ながら、毒見も万全じゃ。この信長を殺したい輩はいくらでもおるからな。そなたの見立てを詳しく聞かせよ」。
ラケルは、そう問いかける信長の表情の底にあるものを感じ取る。そこには、渦巻く怒りと同時に隠そうともしない好奇心が見え隠れしている。自らを死に至らしめようとした毒さえ、その好奇の対象となっているのだ。そういう性分なのだろう。
「では信長様。申し上げます。この度のことは、やはりなにかしらの毒が原因かと存じます。発熱、動悸、嘔吐、下痢。こういった症状の原因は様々です。侍従医の方、そして光秀様よりお聞きしたこれまでの治療は、素晴らしかった。もし信長様のご病状が、流行り病、あるいは単なる臓腑の不調などであれば、侍従医殿の治療で回復されたでしょう。しかし、ご症状は悪化の一途だった。そこで私は毒を疑いました」。
ラケルの説明に、信長はじっと聞き入っている。ラケルはその様子を確認し、そのまま言葉を繋ぐ。
「なんらかの毒が、口から入ったと疑いました。そこで、私はこうした時に使う薬を処方させて頂きました。ポルトガルでは、テリアカと呼ばれております。我らの民族に古から伝わる重要な薬です。今回、このテリアカに、少し調合を加えました。私が作った薬は、肝の臓腑に作用し、毒を排出する力を促進します。この薬を処方したのち、信長様に大量の茶と水をお取りいただきました。その後の経過を見るに、恐らく毒が徐々に排出されたようです。しかし、テリアカはもともとの肝の機能を助ける薬。毒を消し去る力はございません。もし信長様の肝のお力が弱ければ、薬の助けも及ばなかったでしょう。やはり、信長様の日ごろの鍛錬と節制が、臓腑を強く保ち、少しの薬の助けでその力を発揮できたものと存じます。そして何より、得体の知れぬ南蛮の薬を信じ、飲み込んでくださった信長様のご勇断が、お命を救ったのかと存じます」。
信長は、そこまで聞いて、我が意を得たとばかりに深くうなずく。
「うむ。おぬしのそのテリアカを煎じて飲まされた後、わしは腹の中が熱くなるように感じた。その後、小便もよう出るようになった。食欲も戻った。地獄の鬼は、わしの肝を食うのに失敗したようじゃ。南蛮薬とは大したものだ。腐れ仏僧共の祈祷などより、よほど信じられる。それに、わしの魂が、あれを飲み下さねば死ぬと喚いておった。迷いはなかったわ。して、その毒とはどのようなものだったと見立てる?」。
ラケルは、その言葉の底に、広がる信長の怨念を感じ取る。そして、毒を盛った者がどのような者であれ、生き続けることは困難と確信する。しかし、ラケルにできることは、ただ自らの考えを偽りなく述べることだけだ。
「すべては憶測でございます。しかし、今回の毒は、トリカブトなどの植物のものではないでしょう。鉱物の毒かと。これは熱に強い。恐らく、器に非常に薄く塗られたのでしょう。その場合、毒が溶け出して食材に混ざるのに、しばしの時間が生じます。毒見役には症状がでなかったと聞きました。それをみてもやはり、鉱物の毒である可能性が高い。私はポルトガルで、鉄砲に撃たれた兵士を多く診てきました。彼らの中には、傷が治ったのに、信長様と似た症状で死ぬ者がおりました。恐らく鉛玉の毒が、体内に残ったのでしょう」。
ラケルの説明を聞いた信長は、深くうなずく。
「明察である。その見事なる医術は、そなたの家に伝わるものか?そなたは代々南蛮医の家系か?お主の先祖について知りたい」。
ラケルはどこまで語るか、しばし逡巡する。しかしすぐに、語れる全てを話すと心に決める。結局それが自分を護るだろう。
「少し長くなります。お許しください。私の祖先は、代々、ポルトガルの隣国スペインで暮らしておりました。その頃、私の祖先は医者ではありませんでした。小国の王に仕え、王室による貿易の差配、戦費の調達や税の徴収などを担っていたそうです。しかし、今からもう百年近く前。スペインのカトリック王は、我々ユダヤの民をかの地から追放しました。わが祖先は、この時隣国のポルトガルに逃れます。以来我が家系は、キリスト教徒を装いながら、ポルトガルで医術を生業として参りました。申し上げた通り、わが名は、ラケル・ヌニュス・デ・サンタンヘルといいます。ヌニュスは、スペイン大追放の時、ポルトガルに逃れた私の先祖の名です。ヌニュスがポルトガルに逃れた時は、まだ六歳でした。父親は、ヌニュスの目の前で、腹を裂かれて死んだそうです。逃亡のために飲み込んだ金貨を、盗賊が奪うためにです。この名は、そうした一族の苦難を忘れぬようにと、親が私にくれた名です。我が一族は、数十年に渡りポルトガルで暮らしておりました。しかし、とある事件がきっかけで、私達はポルトガルのキリシタンからも激しく追われる身となります。そこで私は、インドのゴアに逃れました。以来流転の人生を送っております」。
信長は、首を左右に大きく振りながら小さく唸り、言葉を繋ぐ。
「この世は誠に奇怪じゃ。ここにおるフロイス達は、キリシタン伝道のために、二年もかけてはるばると日本までやってきた。わしはその話、にわかには信じられんかった。そして今度は、そのキリシタンに追われ、大海を逃げる者がこの日本に流れ着き、わしの命を救った。さらに数奇じゃ。しかし、なぜそれほどまでにキリシタンはおぬしらを畏れる?キリシタンは、イエズスという坊主が語ったことが、この世の真理と触れて回っておる。その真理を追求する者が、同時に血眼になって別の者を地の果てまで追い回す。これもまた奇妙じゃ。時に・・」。
その時、このやり取りを、焦燥し切った表情で聞いていた男が、自制心を失い信長の言葉を遮る。オルサンティである。
「信長様。いけません。このような邪教の者の言葉でそのお耳を汚されては。信長様の御心に穢れが・・・・」。
哀れなオルサンティは、その言葉を皆まで継ぐことはできない。第六天の魔王の怒りが怒髪天を突く。それは三十畳を優に超える謁見の大広間にこだまする。怒りの波動は、金箔で輝く襖絵の竜虎を、まるで命が吹き込まれたかのように震えさせる。
「勝家!この伴天連を叩き斬れ!このわしの話を遮るうつけがこの世にまだおるとはな!まして、わしの魂が穢れると?わしの魂を司るものはただ一つ、わし自身じゃ!伴天連如きにこの我が魂について説教されるとは不愉快千万!今すぐ、ここで斬って捨てよ!」。
「御意・・・」。
光秀の横で控えていた柴田勝家は、一言そう応じると、オルサンティの元に歩み寄る。オルサンティは、恐怖のあまり、もうほとんど失神している。しかし、勝家にとっては、信長に仕えて以来度々繰り返される、日常の一コマでしかない。
(馬鹿が・・・)。
柴田勝家は、オルサンティを見下ろすと、誰にも聞こえぬほどの小さな声で一言、そうつぶやく。そして、表情ひとつ変えずに鞘を払う。その手に握られた刀は、備前長船長義の銘打たれた名刀である。一太刀振るえばもう、人の首は胴に留まることができない。
その時だった。脱兎のごとくオルサンティの前に走り寄った光秀が、その顔面を力任せに殴打する。その顔はみるみる腫れあがり、折れた歯が飛び、畳に血が下たる。
「このうつけが!あれほど信長様の前で勝手に口を開いてはならんと申しつけておったのに!身の程知らずが!」。
光秀はなおも拳を振り上げる。自らの拳が血でまみれ、その身を包む瀟洒な装束が、血飛沫でみるみる赤く染まる。光秀は、拳の皮が裂けたところで、ようやくその手を止める。そして信長に平伏していう。
「お館様。私の躾の不徳でございまする。深くお詫び申し上げます。しかし、伴天連を殺せば南蛮との交易に思わぬ影響が及ぶやも知れませぬ。このような者の、くだらぬ命ひとつで、そのような不利益を被られますのは、信長様にとってあまりにもったいないこと。この馬鹿は私の方でしっかりと躾けます故、どうぞお命だけは」。
光秀の機転に、信長は小さくうなずく。そして、その血でまみれた拳に目をやる。
「ふむ。拳が破れるまで間抜けを折檻したおぬしの意気に免じ、命は助けてやる。その伴天連、すぐにひっ立てて連れ出せ!」。
ラケルは、突然目の前で乱舞した圧倒的暴力に、ただ震え、慄くことしかできない。これが信長か。この国が激しい戦乱の中にあり、武張る者しか生き残れぬことを、ラケルは否応もなく骨身に叩きこまれる。
「さて。阿呆はいなくなった。再開しよう」。
そういって信長は微笑する。まるで一人の異国人を殺しかけたことなど、もうすっかり忘れたかのように、その顔には無邪気な好奇心が戻っている。しかし、ラケルは恐怖で思考もままならない。その様子を見た信長が、別人のような柔和な声で言葉を促す。
「事件じゃ。そなたがポルトガルを追われたきっかけという事件について聞きたい。長くなっても構わん。異国の話を聞くのは面白い。最高の道楽じゃ」。
信長の言葉に誘われて、ラケルの脳裏にこれまでの信長との会話がよみがえる。そして、封印していた記憶も。しかし、私はあれを語らなくてはならない。ラケルは、まだ恐怖に高鳴っている心臓の鼓動を感じながら、そう腹に決める。
「ポルトガルのヴィゼウという街で父が医院を開いておりました時、私はそこで修行をして居りました。ある時、キリスト教徒の豪族の子を診ました。まだ、数え年で十歳にも満たぬ男児でした。激しい発熱、嘔吐、けいれん。それらが二十日も続きました。私は父と共に、あらゆる処置を施しました。テリアカも与えました。しかし、幼き少年は、信長様のように、病に打ち勝つだけの生きる力がありませんでした。処置の甲斐なく、亡くなったのであります。原因は最後まで分かりませんでした。少年の親は理性にあふれたキリスト教徒でした。我々を責め立てることもなく、静かに悲しみを受け入れました」。
ここまで語り、ラケルはそっと信長を伺う。信長は身じろぎもせず、ラケルの次の言葉を待っている。ラケルはそれを確認すると、再び言葉を紡ぐ。
「しかし、それからしばらくして、噂が立ち始めました。サンタンヘル家の者たちは、キリスト教徒ではなく、改宗したふりをしたマラーノではないか、と。マラーノとは、隠れたるユダヤ教徒の蔑称でございます。実は、それ以前にも噂が立つことはございました。我々は、決して知られぬよう、秘かに我らの信仰を続けておりました。しかし、小さな違いに気が付く勘を持つ者はどこにでもいます。噂は少しずつ広がりました。しかし、豪族達は、高い医術を持つ我々を、領地に留めておきたいと考えていました。世間の噂を否定し、サンタンヘル家を庇護し続けてきたのです。
しかし、その少年の死と共に、潮目が変わります。噂は悪い方に尾ひれをつけて広がりました。やがて、サンタンヘル家が少年をわざと殺し、その血をユダヤ教の儀式に使ったという流言飛語が飛び交うようになりました。豪族は、それでも我々を護ろうとしてくれました。しかし父は、憎悪に駆られたキリスト教徒によって、どのような惨劇が起きてもおかしくないと考えるに至りました。そこで父は、まず私と妹を国外へと逃したのです。その時、父が私のお守役につけたのが、ここにいるディエゴでございます。この男は父の盟友です。貿易商人であり、海をよく知る航海士です。短い間ですが、傭兵の経験もあります。私はディエゴと共にポルトガルのリスボンから、密航船でインドのゴアに逃げました」。
「そなたの父は、その後どうなったのだ?」。
「死にました。異端裁判で裁かれ、生きたまま焼かれて死んだそうです。私たちを国外へ逃がした事も、父の罪を重くしたのでしょう。私はその死をゴアで知り、身の危険を感じてさらにマラッカに逃げました。もう七年以上前のことになります」。
それを聞いた信長は、じっと天井を見つめる。その天井には、見事な狩野絵の鳳凰が描かれている。その眼が、信長の視線を受け止め、睨み返す。信長は、異国の女が話していることが、どういうことなのか、図りかねている。
「信じる神が異なるというそれだけで、お主の父は生きたまま火に焼かれたのか?それが誠なら、キリシタンこそ悪魔そのものではないか。かくいうわしも八年前、延暦寺に火を放った。大勢の仏僧どもから女子供まで焼き殺した。しかしそれは、あ奴らの信仰が許せなかったのではない。信仰で領民を操り武装させ、領地を支配して蓄財を重ねた。仏門の徒にあるまじき行為だ。挙句の果てには、女子供を盾に取り、この信長に弓を引き、領地を盗もうとまでする始末。わしは、道を踏み外したあの糞坊主どもを根絶やしにするためなら、魔王になることも厭わぬ覚悟で焼き討ちを決断したのだ。おぬしらもまた、キリシタンの土地と財産を奪い、スペイン、あるいはポルトガルを盗もうとでもしたのか?」。
ラケルは、額に滲み出た脂汗が頬を伝い、顎からどろどろと落ちて、畳に染みこんでいくのをじっと見つめる。そして、考える。全てを語る覚悟はできている。しかし問題は、それが伝わるかどうかだ。
「信長様。正直に申し上げます。まず、我々が信じる神は、キリシタンが信じる神と同一でございます。彼らがデウスと呼ぶ神です。しかし我々は、キリシタンが崇めるイエズスという僧侶が、人の形をした神であるとは考えておりません。デウスは神である。しかしイエズスは神の現れではない。神が人の肉を得てこの世に現れるようなことはない。我々はそう考えております」。
「ほう。同じ神を信ずるが、イエズス坊主はその化身ではないと。そう申すのだな。分からぬことはないぞ。神の化身などという奴はたいてい似非じゃからな」。
「もうひとつ、申し上げます。サンタンヘル家は、長くキリシタンを装って生きてきた故、彼らの教えも知っておるつもりです。キリシタンの教えでは、イエズス自身は自らを神とは名乗っておりません。その死後にイエズスを慕う周りの者が、彼を神の現れとして祀ったとのことです。この話、続けてよろしいでしょうか」。
ラケルは、恐る恐る信長の様子を伺う。
「良い。おぬしの話も面白いが、そこに控えておる了斎とフロイスの狼狽えた様子がまた、面白い。なにか言いたいじゃろう。しかし口を開くなよ。今わしは、ラケル殿と話をしておる。その口開けば今度は十兵衛の拳ではすまんぞ。勝家の白刃が、今度こそ止まらぬだろう。安心せい。おぬしらの言い分も、改めて聞くつもりじゃ」。
そこまで言うと、信長は再びラケルに正対し、続きを促す。
「畏まりました。もう一つ。我らの信仰でお伝えすべきことがございます。我々ユダヤ民族の始祖は、数千年の昔、神の声を聴き、それを絶対の掟として刻まれた石板を与えられました。そして、その掟を守り抜くことと引き換えに、国と土地を与えられました。その国をイスラエルと言います。
以来わが民族はその掟を護り、その土地で命をはぐくんでおりました。しかし、今より千数百年の昔、祖国は古代の大帝国に滅ぼされました。以来我々ユダヤ民族は、土地と国を失い流浪の身となりました。しかし掟だけは忘れず、護り続けておるのでございます。
我々は今、神に試されております。
もし我々がスペイン王の土地を奪い、ポルトガル王の財産を盗んでそこに国を築いたら、それは大いなる神への裏切りとなります。その時我々は、祖国イスラエルを自ら永遠に失うでしょう。我々は、スペイン、ポルトガル、インド、そしてこの日本で、この命ささやかにつなぐことを望んでも、その国を盗ることは神に許されておりません」。
「ふむ。そなたの民族はその祖国を追われたのち、太古から数千年、異民族の国に暮らせども、その国を盗もうとしたことはないのだな。それは、そなたがいう神との約束ではないと」。
「わが民族の名誉に誓って、そのようなことはかつてございません。私はかつて、平戸の松浦公にも問われました。私がキリシタンのようにユダヤ教をこの日本で布教し、信徒を増やすことを目論んでいるのではないのか、と。ですので、信長様の懸念は分かります」。
信長は、それを聞き目を見開く。
「うむ。松浦殿の言いたいことは良く分かる。してその答えは?」。
「はい。お答え致します。先ほど申し上げました通り、神は我が先祖に掟を授けました。最初は十の戒律でございました。我々の先祖はイスラエルを安住の地とするために、その掟を受け入れると決めました。これは異教徒や異邦人とは無関係の掟です。我々の信仰は、ささやかな民族信仰にすぎぬ。
また、十戒の後も、神は度々その声を聴くことができる者を通じ、さらなる掟を示されました。それらの掟とその解釈の蓄積は膨大です。我らはその掟を護るため、文字を理解しなくてはなりません。ヘブライという我らの言葉です。このヘブライで示された神との契約、そしてその証として男子がその体に刻む傷こそが、我らの信仰の証です。
従いまして、我々の信仰を実践するためには、まずヘブライを習得せねばなりません。その上で、日々の生活から食事まで、細かな掟を日々守って暮らす必要がございます。分かりやすく申し上げますと、とても面倒なのです。キリスト教のように、伝道するものでは無いからです」。
「体に傷を刻むのか。どこに、なにを刻むのだ?」。
ラケルはしばし逡巡する。
「言えんのか」。
信長の声に不信の色が漂う。ラケルは自らに言い聞かせる。すべてを語ると決めたのだ。逡巡してはならない。
「男性が持つ槍の先であります。その鞘の一部を切り取ります」。
その言葉に、ラケルの言葉を漏らさず聞くべく耳を傾けていた家臣の間に、小さなどよめきが起きる。
「お主には驚かされる。そこまでこの国の言葉を使いこなすとは。実に見事な知力だ。要するに、麻羅の皮を斬るのだな。それは、確かにひと時も忘れることはできぬであろう。して、女はなにもせんのか。女も掟は守らねばならんのだろう?」。
「我々の教えでは、女は生まれながらに完全なものと見做されます。男性は不完全なものである故、契約の印を体に刻み、掟をひと時も忘れぬよう努めねばなりません」。
「女は完全なるものか。それもその通りだ。男は不完全。男は皆、阿呆だからな。益々面白い!」。
ラケルは、信長の表情から不信の色が消えた事を確認し、安堵する。信長は、なおも矢のように質問を浴びせてくる。
「して、食事の掟とは如何様なものか。仏門の糞坊主共も、四つ足を食ってはいかんなどという。あれと似たようなものか」。
「はい。四つ足は我々の掟でも厳しい戒めがございます。但し我々の掟では、牛や羊は、正しく調理すれば食することが許されております。他方、豚やうさぎは完全に禁止されております。実は、ポルトガルで我々サンタンヘル家が隠れたるユダヤ教徒、つまり、マラーノであると疑われたきっかけも食でございました。我々が、一切豚を食さないことが、疑いのきっかけとなりました」。
「なるほど。その敬虔なる行い故に、結果的にその命も危うくしておるわけか。仏門の糞坊主共は、四つ足はいかんなどと言いながら猪や牛を食らい、色欲などはもっての他などと言いながら、夜な夜な淫らな行いに耽っておる。あの糞坊主共と比べたら、おぬしらの掟とは厳格なものだな。そして、その厳格なる掟を護り続ければ、いつかそなたらが祖国に帰れる日が来る。そう、信じておるのだな?」。
信長は、異国の女医者が目の前で語った神と法の話が、やはりにわかには信じがたい、という面持ちで、しかし、であるが故に興味が尽きないという様子である。そして、自らの思考の混乱を、楽しんでいるようにも見える。
「異国の、哀れにも滅びかけている民族のささやかなる信仰にご関心を頂き、恐悦至極に存じます。信長様のご明察には、私も驚くばかりでございます」。
信長はラケルの目をまっすぐ見据えて、穏やかな微笑を浮かべる。
「うむ。毒の話を聞くつもりが、それよりはるかに面白い話が聞けた。そなたは賢い。わしは聡明な者が好きじゃ」。
そこまで言うと、信長はひとつ深呼吸をする。知らない異国の話を追うことに疲れたその頭に、新鮮な空気を送り込んで冷却するかのように。そして、これまで長くラケルと正対していたその視線をおもむろにずらす。そして、このやり取りを無言で、しかし明らかな焦燥の面持ちで聞いていた二人の男に声をかける。
「ロレンソ了斎。そして、フロイス殿。宗論をやるぞ。今から十年ほど前、お主らはキリシタン禁教を懇願してきた日乗上人を、宗論で見事に打ち負かした。あの時お主らは、日乗を相手に自信に満ち溢れておった。負かされた日乗は、こともあろうにわしの刀を振り回してお主を斬ろうとしよった。忘れてはおるまい。あれは誠に滑稽であった。あのような愚かな振る舞いで、あの場にいた皆が、日乗の負けを確信したからな。
しかし、今日はいささかおぬしらの様子がおかしい。このラケル殿の話を聞いて居るおぬしらに、隠しきれぬ明らかな動揺、焦燥、あるいは憤りが伺える。この信長は見逃さんぞ。十兵衛にぶん殴られた阿呆もそうだが、まるであの時の日乗を見ておるようだ。おぬしらキリシタンが、海の向こうからも追い続けるというこのユダヤの民、わしに言わせれば、言うておること理にかなって居る。おぬしらキリシタンがなぜこの者らを火あぶりにするほど憎むのか。その理屈が知りたい。そしてその理屈が、おぬしらのイエズスが説く真理とどう交わるのか。しかと聞かせてもらおう」。
信長はそういうと、再びラケルに正対する。
「ラケル殿よ。そなたの今日の話、わしの胸に響いた。かつて、この了斎とフロイス殿は、キリシタンを禁教にしろといってきた日乗という変人仏僧と、宗論を交わした。わしはその時、キリシタンの話に感心した。しかし、今日のそなたの話もまた、深くわしの胸に刺さった。追う者と追われる者。両者の言い分をしかと聞きたい。これは、わしの道楽だ。悪いがおぬしにも付き合ってもらう。しかしその代わり、わしのこの目が黒いうちに、おぬしらの命がこの日本で危うくなることはない。この織田信長が約束しよう。今この日の本で、これ以上の保証はないはずじゃ」。
そこまで一気にしゃべると信長はおもむろに立ち上がり、光秀に命じる。
「十兵衛。宗論をやるぞ。十日後だ。場所は次もここじゃ。そして、このラケル殿らが安土・京都に滞在する間、いや、この日の本におる間は、キリシタンに近づけるなよ。ラケル殿は今、儂の最も重要な客人じゃ。よいな」。
そういうと、信長は風のように謁見の間を去っていく。
この日からおよそ数か月後。安土城下で、ある噂が広まった。信長が、安土城で仕える侍女ら数名を斬首したというのである。理由は、信長留守中の城内風紀を乱したから、といわれた。城下では、それしきのことで臣下の首をはねる信長の残虐性に、皆が震撼した。斬首の噂は本当だった。しかし、それらの侍女が担っていたのが、厨房仕事、そして毒見であったことは、永遠に闇に葬られた。