隆信との再会
「久しぶりだな、了斎。息災であったか?」。
長い沈黙の後、松浦隆信は短く言葉を発する。その顔はまるで、能面のようにのっぺりとしていて、その持ち主がどのような感情を抱いているのか、謁見する者に一切の洞察を許さない。その声はどこまでも冷たい。
生月島に着き、籠手田と再会した日の夜。了斎はもう隆信の前にいた。事情を知った籠手田アントニオは、ことの緊急性を知るとすぐに早馬を走らせ、隆信への謁見を願い出た。かつてはキリシタンを奨励したが、今や警戒に転じている隆信。その隆信の勧めでキリシタンとなりながら、主君の方針が変わってもなおその信仰を捨てない籠手田。二人を隔てる溝は、年々深くなりつつある。
しかし籠手田は、かつて隆信が跡目争いに敗れそうになった時も、隆信を支え続けた男だ。隆信の後見人とさえ、言っても良い。
それだけではない。籠手田のキリシタン信仰を弾圧することは、南蛮貿易復活の最後の可能性を完全に失うことも意味していた。そのような隆信の葛藤が、深夜の面会を実現させ、そして同時に、能面のようなその表情を創り出している。
「隆信様。深夜の謁見を賜り心より深く感謝申し上げます」。
了斎は、平伏して隆信に礼をする。
「良い。要件は籠手田殿より聞いておる。ラケルを京に連れていきたいのだな。理由を申せ」。
「はい。短刀直入にお願い申し上げます。ラケル殿を京にお連れし、明智光秀公の病を治していただきたいのです。光秀公は今、京から天下にその名を鳴り響かせたる織田信長公の第一の家臣でございます。この了斎めは、信長様より南蛮医の探索を命じられました。家臣のお命を救うべく尽力されておられる信長公に、隆信様のお力をお貸し願えないでしょうか。日本の医者では埒が明かないとのことでございます」。
「なるほど。信長公の第一家臣か。それは重要なお方であるな。信長殿が鉄砲隊を率いて甲斐の武田を打ち負かし、今や破竹の勢いとの評判はこの隆信の耳にも届いておる。おぬしが慌てふためいて京から飛んでくるわけだ。この平戸に。わざわざな」。
隆信の言葉には、明らかな棘がある。しかしその程度のことは、了斎も承知でここまで来た。それより、隆信の言葉はラケルを京に上らせることには前向きのように感じられ、了斎の胸に一縷の望みを抱かせる。
「時に、おぬしがラケル殿のことを知ったのは、籠手田殿からの文がきっかけとか」。
「左様でございます。この平戸に奇跡のような腕を持つ南蛮医がおり、隆信様の庇護のもと日々民草の病や怪我を治しておられる、と。そのような素晴らしいキリシタンがおられるのであれば、ぜひお目にかかりたいと思っておりました。まさにその時、信長様より光秀公の危篤の知らせを受けたので参ります。このような者を庇護されておられること、隆信様のその深慮と慈愛に深く感銘致して居ります」。
「そうか。ラケル殿の腕前は見事だからな。我々も助かっておる。町の民草もずいぶん救われた。信長公第一の家臣の御容態が悪いのであれば、それは我が松浦藩の安寧のためにも、ラケルには一肌脱いでもらわんといかん」。
了斎は、意外なほど前向きな隆信の言葉に安堵し、思わず笑顔を浮かべる。
「ご高配に感謝申し上げます。この了斎、もしラケル殿の上洛叶いましたら、必ずや松浦様のご勇断と寛容につき、信長公にも漏れなくお伝え申し上げます」。
「それは良い。しかし、本人の意向も聞かねばならぬ。それだけの重要人物、もしそのお命助からぬ時は信長公の逆鱗に触れるであろう。ラケル殿の命も危うきものとなる」。
「隆信殿。困難な試みであることは重々承知しております。なにとぞ、お取り計らいのほど、お願い申し上げまする」。
了斎は、改めて隆信の前にひれ伏し嘆願する。しかし、その心は、確かな手ごたえを感じ取っている。やはり私が平戸に来て正解だった。異国人のフロイスやオルサンティでは、隆信が首を縦に振ることはやはりないだろう。
「ところで・・・・」。
了斎は隆信の声を聴き、顔を下げる。そして、その耳に全神経を集中する。隆信は、自分の次の言葉に対する了斎の反応を一寸たりとも見逃さぬよう、疑い深く観察しながら言葉を繋ぐ。
「あの女医者。キリシタンではないぞ。ユダヤ人だ。知っておるのか?」。
了斎は、自分の心の臓がぎゅっと激しく縮んだ事を、はっきりと自覚する。予期せぬその言葉に、自らの精神力の全てをつぎ込んでその狼狽を覆い隠そうと、平静を装う。しかし、相手は常在戦場の世で、命のやり取りを続けてきた武将である。一介のキリシタンの処世術が及ぶ相手ではない。隆信は、隠しきれない了斎の狼狽を見て、既に確信している。
「お前。ラケル殿がユダヤ人であることを知っていたな。そうでありながら、我の前で素知らぬふりをしてあの者をキリシタンと呼びよった!我の前で偽りの言葉を吐くとは良い度胸だ!申し開きしてみよ。一度だけ、醜い言い訳を聞いてやろう!」。
了斎は、隆信の逆鱗に触れ、にわかに自らの死が近づいた事を自覚する。そして、混乱する頭の中で必死に思考する。どうして隆信殿がそれを知っている?籠手田殿も気が付いていなかったのに。キリシタンの教義を知悉している者がいる。だれだ?良斎はそこで一人の男を思い出す。田川だ。違いない。主君の命でキリシタンとなり、またその命によりあっさりと棄教したあの男。怜悧な頭脳とどこまでも強靭な精神の持ち主。了斎は、あの男が一時たりとも、心から福音に帰依したことはないと考えていた。田川にあるのはただ一つ。松浦家への忠義である。田川はキリシタン教会によく通い、熱心に教義を学んでいた。だがあれは、信仰ではなく、探索だったのだ。田川は恐らく、籠手田が手紙に書いてきたような些細な違和感から、女医者がキリシタンではなく、ユダヤ人だと気が付いたのだろう。
「左様でございましたか。実は、籠手田殿からのお手紙にはこうありました。素晴らしいキリシタンの医者がいるが、なぜかあまりミサに参加せず、休みの取り方も違うようだ、と。私はそれを読みました時、その医者が、かつてザビエル様からお聞きした、イスラエルの民ではないかと思いました。しかし、確信に至りませんでした。そこで、本日はキリシタンの南蛮医と申し上げた次第でござります。決して隆信様の前で偽りを申し上げたわけではございません。なにとぞご容赦いただきますよう」。
了斎は平伏し、この場でとっさに言えることを全て言う。嘘ではない。しかし、最も重要なこと、聖務裁判所からの捕縛命令の事だけは、絶対に知られてはならない。了斎とオルサンティ、そしてフロイスの三人だけが知る機密事項である。
「ふん。よくできた言い訳だな。準備でもしてきたか。キリシタン坊主はよく知恵が働くのう。まあ良い。しかし、おぬしらキリシタンは、そのイスラエルの民を憎んでおるのだろう?キリシタンの教えを受け入れぬ異端として。そのお前たちにラケル殿を預けた後、何が起きるのか?あるいはお前が言う光秀公の病の話も全てが偽りで、ラケル殿を捕縛するために参ったのでは?そんな疑いをしたくもなる。違うか!」。
「滅相もございません。私は政に疎い一介のキリシタン坊主でござりまする。信長公の命令に背けば、それはすなわち、この世に生きられぬことと同じでございます。ただただ、ご命令に従い、藁を掴む思いでこうしてお願いに参ったのでございます。それに我々は、異端の徒を憎みは致しません。対話し、教え諭してイエズス様の福音に目覚めるお手伝いがしたいのみでございまする」。
その了斎の言葉を聞いた隆信の表情が、憤怒の鬼と化す。
「だまれ!異端の者を憎まぬとほざいたな?籠手田殿もおる前だがもう我慢ならん!わしがおぬしらキリシタンをどう思っておるか、はっきり言ってやろう。お前は宮の前で刃傷沙汰が起きる前、仏門との宗論で得意満面に仏僧どもを打ち負かした。あの時のお前の高慢ちきで鼻高々な様子、天狗そのものであったわ。それからあの、忘れもせん。ガスパルとかいうキリシタン坊主が、日本人キリシタンに命じて平戸で何をしたか。覚えていないとは言わせんぞ!平戸、生月島、度島、大島。それら我が領地の寺社から御仏の像を狩り出させ、浜にうずたかく積み上げて焼き払いおった!つい昨日まで熱心に神仏に祈っておった我が領民が、突然目の色を変え、嬉々として仏像を叩き割り出した。あの時わしはバテレンの本性を見たわ。あれが対話か!あのような所業を平然としておきながら、異教を憎んでおらんと申すか。笑止千万!お前も日本人でありながらあのような所業に加担し、恥と知れ!あのような愚かな所業が民草の反感を買い、鬱積した怒りとなって、あの宮の前の沙汰に繋がったのだ!」。
了斎は、既にぱっくりと口を開けていた心の古傷に、正面から太い釘を突き立てられ、自らの魂が血みどろになっていく事を自覚する。しかしそれがもたらすのは、耐えがたい苦痛だけではない。見ようとせず、治癒しようともせず隠してきた古傷から、腐った膿がどくどくと垂れ流されて浄化されていくような、不思議な感覚でもある。ああ、そうか。私はこうして、あの過ちを正面から咎められることを、魂の奥底で望んでいたのだ。
「この了斎。隆信様のお怒りとご叱責、全てがごもっともでありますこと、今となって分かるようになりました。あの時私は、伝道に燃えるあまり仏僧を論破することしか考えておらなんだ。ガスパル・ヴィエラ師らが、偶像崇拝を憎むあまり、日本人キリシタンを率いてあのような愚かな行動に出ることを、止めることもできませなんだ。あれは、イエズス様の教えではございません。我らの中の業でございまする。もし、隆信様のお怒りが収まるのでしたら、この了斎をここでお斬りください。しかし、その代わり、どうかラケル殿を京に上らせること、どうかご助力お願い申し上げたい。案内はここにおりますミゲルが致します」。
了斎は、これを心の底からの言葉として絞り出した。あの過ちは取り返しのつくものではない。しかし、もしこの命と引き換えに隆信の怒りが静まり、女医者を京に上らせ、信長公の命が救われれば、日本イエズス会の存続にも一縷の望みが生まれる。針の穴を通すようなわずかな可能性だ。しかし、そのために自分の命が使われるのであれば、それはデウスの使命だ。了斎はそう信じた。
しばらくの沈黙ののち、隆信がようやく口を開く。
「おぬしを斬ったところでなにも変わらぬ。武士でもないお前が、軽々しく命を差し出すなどというではない」。
そういった隆信の表情に、少しだけ血の色が戻ってきている。隆信はただ、胸の中にこの十年渦巻いていたものを吐き出したかったのだ。
「さて、では、ラケル殿をどうするか。あの者は私が庇護しておるが、家臣ではない。客人だ。わしはラケル殿に上洛を強いるつもりはない。光秀公を救えねば、打ち首になるやも知れぬ。ましてやラケルはユダヤの者だ。もし首尾よく光秀公のお命救うことができても、そのあと京で、おぬしらキリシタン共に何をされるか分からん。京に上るか、平戸に留まるかは、ラケル自身の判断に委ねる」。
了斎は、隆信の言葉に内心驚きを隠せない。領地にいる有能な医者を失うことは隆信にとって確かに手痛いことだろう。しかし、隆信は今、キリシタン大名の大村や、肥前の龍造寺らの九州諸大名との勢力争いで劣勢に立っている。そんな中で、天下人になるかも知れぬ信長の要請を、女医者本人の判断に委ねるとは。しかし、了斎はそれについて深く考えることはしない。一国の領主が考える深謀遠慮など、一介のキリシタン坊主が推し量ることなどできない。今はただラケルを京に上らせ、信長を治療させることだけに、集中しなくてはならない。
「隆信様のご高配、深く感謝申し上げまする。それではこの了斎。明日の朝にでもラケル殿をお訪ねしたく存じます。そして事情を説明し、京へ上ることを、私の口からご依頼申し上げます」。
すると隆信は、その表情をわずかに崩し、唇の端に笑いを浮かべる。
「それには及ばぬ」。
そういうと隆信は、隣の間を隔てる襖の方に目をやり、おもむろに話しかける。
「ラケル殿。今の話、聞いておったな。そういう事情じゃ。そなたの考えを聞こう」。
その言葉に了斎は驚き、襖の奥の物音に耳を傾ける。音もなく襖が開く。襖を開けるその手には、おびただしい数の剣蛸が、華のように咲いている。田川の手である。そして、開け放たれた襖の奥に、異国の女が一人佇んでいる。ラケルである。時は既に亥の刻。深夜の屋敷の暗がりの中で、蝋燭の炎が異国の女を照らしだす。了斎は、その見えぬ眼を宙に彷徨わせながら、嗅覚で、女医者の存在を認知する。
了斎の横でこれまで無言を貫いてきた籠手田が、初めて声を発する。
「お久しぶりでござるな、田川殿。先ほどからわずかな気配を感じておったが、やはりそなたとラケル殿であったか。隆信様の手際の良さ。感服致しまする。今ご説明したお話が、隠し立てや偽りのない事情でござる。ラケル殿のご助力、この籠手田からも深くお願い申し上げたい」。
ラケルは、わずかに籠手田の方を向くと、無言で頭を下げる。ラケルは、襖の向こうで全てを聞いていた。その表情には一点の曇りも迷いもない。
「隆信様。全てお聞きさせて頂きました。私の判断は簡潔でございます。医者は人の命を救うことが道。これを生涯の生業と決めたその時から、それは変りませぬ。どのような状況であれ、やれることを尽くしたく存じまする。私は、京へ参ります」。
隆信はその言葉に、ほんの一瞬、ほっとしたような表情を見せる。そして、すぐにまた険しい顔に戻る。この男にしては珍しく、しばし逡巡し、虚空を眺めながらラケルに掛ける言葉を探す。しかし、生死を賭して事に臨もうとしている者に、空虚な言葉など意味を持たぬことは、隆信には判り切った事だ。
しばしの沈黙の後、ようやく隆信は口を開く。
「ラケル殿。そなたの決断相分かった。わしからもよろしく頼もう。そして、わしもそなたにできることを少しでもしたい。上洛の護衛として、この田川とその配下の手練を数名、随行させる。本当ならば一個小隊をつけて送りたいところだが、天下人になろうかという方の領地に出向くのに、そうもいくまい。田川一人で小隊程度の力はある。もしその身に危険迫る時は、田川の命に従え」。
隆信はそうラケルに言うと、田川を見据えて命じる。
「田川清兵衛。おぬしをラケル殿の上洛における護衛役に任ずる。頼むぞ」。
「承知仕りました。この田川、一度は鉄砲で死にかけました。ラケル殿に救われねば、私は既にこの世におらぬ。今度は私の番だ。我が一命を賭け、この者、護衛致しまする」。
田川は平伏してその命を受ける。隆信はそれをじっと見据えてから、今度は了斎を見て命じる。その眼光は鋭く、命じられた者に、反駁の余地はない。
「お前の横にいるそのミゲルという小僧。その者を平戸に置いていけ。おぬしらキリシタンがラケル殿をもし捕縛すれば、この小僧の命はない。わかっておるな」。
了斎はそれに対してすぐに何かを言いかける。まだ青年とも少年ともつかぬ平民を人質に取るなどなんと残酷な。しかし、了斎の言葉を遮り、ミゲル自らが叫ぶように答える。
「承知仕りました!このミゲル、平戸にて光秀様のお命が救われること、お祈りしてお待ち申し上げます」。
ミゲルの透き通ったまっすぐな目は、その人生で初めて訪れた重大な天命に高揚している。了斎は、それを聞き、言いかけた言葉を飲み込む。すまないミゲル。これも、イエズス様のお言葉で日本の民を救うための試練だ。お前もキリシタンなら分かっておくれ。了斎は心の中でそう呟く。隆信は、ミゲルの決心を聞き、ただ満足そうに頷く。そして、すべてのやり取りを見届けたラケルは、隆信に願いを申し出る。
「隆信様。田川殿の護衛。心強い限りでございまする。一つだけ、わたしの願いをお聞き頂けますでしょうか」。
ラケルの言葉に隆信は大きく頷く。
「もちろんじゃ。一つとは言わず、なんでも申せ」。
「あり難きお言葉。それではお願い申しあげます。ディエゴは今回、京に同行させたい。あの馬鹿力とでかい図体は、道中何かと役に立つでしょう。しかしロドリゴは置いていきたい。この旅は、やはり命の危険を伴います。私らが京にいる間、あるいは平戸に二度と戻れずとも、ロドリゴを終生、隆信様に庇護頂きたいのでございます」。
二度と平戸に戻れずとも。その言葉が、隆信の心に深く突き刺さる。隆信はその言葉を嚙みしめながら深く頷き、毅然たる声で応える。
「相分かった!松浦家が存続する限り、ロドリゴは平戸で庇護することを誓おう。あの者、船大工としての腕もだいぶ上がってきたと聞いておる。必ずや一人前となって、この松浦を支えてくれる人材となろう。おぬしはなにも心配せずとも良い」。
その言葉に、ラケルは心からの安堵の表情を浮かべる。
「ありがとうございます。ロドリゴは、我らの逃亡の旅が始まる時、まだ少年でした。キリシタンに親を殺され、リスボンの港町を徘徊していた孤児だったのです。それを水夫の見習いとして引き取って以来、わが子のような存在でございます。どうぞ隆信様の温かい庇護のもと、安寧に暮らせますよう」。
隆信は、その言葉に無言で頷く。全てが終わったとき、時はもう子の刻となっていた。