あご風
夏祭りが終わると、やがて平戸に秋が訪れる。漁師たちが「あご風」と呼ぶ北風が吹くと、一年を通じて一番の活気が港に溢れる。あご漁の最盛期だ。あごとは、飛魚のことである。夏の終わりから秋にかけ、平戸には脂の乗り切った飛魚がつぎつぎと水揚げされる。
今年は豊漁のようだ。港に船をつける漁師たちの顔はみなほころび、商いの声には活気がみなぎる。長く海を旅してきたラケルにとっても、飛魚はなじみの魚だ。ロドリゴは、時に勢い余って船の中に飛び込んでくる飛魚を捕まえては喜んでいた。平戸の人々は、この飛魚を天日で干して乾燥させ、様々な料理に用いる。干物にすれば日持ちするため、飛魚は交易品としても重要だ。平戸の飛魚は、山を越えた都でもその名が知られているらしい。
「これが終われば、冬もすぐだな」。
慣れた手つきで飛魚を天日にさらしていく、鮮やかな漁師の手際を眺めながら、ラケルはひとり呟く。この地にきて三回目の冬だ。平戸の冬は、耐えがたいほどの寒さにはならない。しかし、常夏の地から来たラケルにとっては、それなりに身構える季節だ。病人も増える。今年はマカオから十分な香辛料や薬草が届かなかった。次の仕入れまで、節約しながら使わなくては。そう考えながら、ラケルは港を後にする。
冬が厳しくても、薬が足りなくても構わない。この平穏が続きさえすればなんとかやっていける。ラケルは胸の中でそう呟く。しかしその思いは、むなしく裏切られることになる。
闇を駆ける馬
飛魚漁も終わり、平戸の街に冬の気配が漂い始める晩秋のある日。時刻は丑三つ時。漆黒の闇の中、潮の香りが残る平戸の町を、数頭の馬が疾走する。駆け抜けるその蹄が石畳を蹴る音がこだまし、夜の静寂を切り裂く。馬上の男たちはみな、鎧兜に身を包んでいる。その眼は、まるで暗黒の世界から逃れてきたかのように血走っている。
隊列の中央を走る馬の背中に、長身の男が辛うじてしがみ付いている。男の顔からは生気が失せ、その手綱を握る手は激しく痙攣している。もはや、いつ落馬して地面に叩きつけられても不思議はない。しかし、男の命の炎はまだ消えることを拒んでいる。最後の力を振り絞り、手綱を必死で握りしめる。その時、馬を駆ける男達の頭上はるか遠くの天空を、巨大な光が切り裂く。男達は、馬を駆けつつも空を見上げ、恐れ慄く。
「なんだ、あれは! 星が堕ちるぞ! なんと不吉!」。
馬上で今にも意識を失いかけていた男は、その言葉にはっと意識を取り戻し、天空を見上げる。巨大なほうき星が尾の光をまき散らしながら、天空を駆ける姿が目に焼き付く。
「あの星は、堕ちようとしているのではない。さらにはるか高くに飛ぼうとしている龍の姿だ。吉兆なり。わしはまだ死なぬ・・・」。
男は馬上でそう言葉を振り絞ると、再び震える手で手綱を握り直す。一行はほどなく、ラケルの医院に着く。突如停止を命じられた馬は驚き、漆黒の闇に馬の嘶きが響き渡る。先導した男が一目散に門に駆け寄り、激しく叩く。
「ラケル殿!田川殿が撃たれた!門を開けられよ!」。
丑三つ時の闇の中で、ラケルは夢を見ていた。ヴィゼウにあった、コンベルソの秘かなる神学校で、ペレイラがなにか夢中になって話している。ラケルは机に頬杖をついて、それを聞いている。そこに突然、何者かが飛び込んできて、ペレイラを押しのけ、机を激しく叩きながらわめき出す。男はなにか日本語を叫んでいる。変だな。ヴィゼウに日本人はいないはずだ。
「田川・・・・・大怪我・・・・・鉄砲・・・・・」。
とぎれとぎれに聞こえるその声が、現実世界のものと分かったその瞬間、ラケルは跳ね起きて叫ぶ。
「ディエゴ、ロドリゴ、起きろ!田川殿が撃たれた!すぐに湯を沸かせ。一刻を争うぞ!ありったけの布を用意しろ!」。
ディエゴとロドリゴも、寝間から弾丸の如く飛び出してくる。既に事態を把握し、一言も発することはない。ディエゴはラケルと共に門に走り、ロドリゴはかまどに駆け寄って火を熾す。
「撃たれたのは田川殿のみか?他にも生死にかかわる怪我の者は?」。
ラケルは門を開け放つと、即座に問う。門を叩いた侍がそれに答える。
「皆負傷しているが、まだ動ける。田川殿が危険だ。足を銃で撃たれた。止血はしたが、相当血を失っている!」。
ラケルはその言葉に頷くと、ディエゴとロドリゴに指示を出す。
「すぐに田川殿の鎧兜を外し裸にしろ!全ての傷を確認する。ディエゴはたっぷりの湯と焼酎を用意してくれ!ロドリゴはすぐに小刀を用意しろ。それから火箸を真っ赤に焼け!」。
二人はばねにはじかれたように動き出す。夜中の急患はこれまでも幾度となくあった。しかし、今回ほどの緊急性と重要性を持つ状況は平戸に来て初めてである。
「撃たれたのはいつだ!至近距離か?遠方からか?」。
「撃たれたのは、ニ日と半日前だ!至近距離ではない。流れ弾だ!」。
ラケルはそれを聞くと、武具の下から露わになった田川の銃創を凝視する。ロドリゴが横から行灯を照らす。弾は右足のふくらはぎを右斜め後ろから突き刺している。しかし、銃弾が反対に抜けた傷はない。鉛玉が足に残っているのだ。取り除かなくてはならない。幸い、骨が砕けている様子はない。ラケルの心にわずかな安堵が広がる。
「ディエゴ。ロドリゴ。患部を切り開いて弾丸を摘出する。三日も経つなら膿も溜まっているはずだ。全て掻き出す。それが終わったら火箸で患部を焼いて、焼酎で洗い流す。その後すぐにひまし油と、消炎剤を塗って包帯で患部を保護して保存する。あとは田川殿の命の力を信じよう」。
そういうと、ラケルは薬箱から丸薬を取り出し、田川の耳に顔を近づけて声を張り上げる。
「田川殿聞こえるか!よくここまで生きて戻られた。私は必ずあなたを助ける。あんたも頑張ってくれ。これはケシの実から取った痛み止めだ。荒療治になるがなんとか耐えてくれ。腹は撃たれてないし、骨が砕かれたわけでもない。きっと助かる!」。
田川は真っ白な顔で唇を震わせながらラケルに何か言おうとするが、言葉は出てこない。意識も混濁しており眼はうつろである。今、間違いなくこの男は生死の境目にいる。時間との闘いだ。ラケルは丸薬を白湯と共に無理やり田川に飲み込ませると、その口に指ほどの太さの麻縄を咥えさせる。そして、おもむろに自ら焼酎を口に含み、田川の傷口に吹きかける。田川が小さく呻く。ラケルは、ロドリゴから小刀を受け取るやいなや、躊躇なく田川の銃創を切り開き、蝋燭の炎が揺らめく血の海の中で必死に鉛玉を探る。
「ぐうう・・・・・!」
声にならない叫びが、王直の屋敷に響き渡る。ラケルは表情一つ変えず、さらに傷口の奥深くをまさぐる。そして、小指の先ほどの弾丸を探り当てる。即座に摘出する。これがふくらはぎを貫通しなかったということは、やはり遠方から放たれた流れ弾が当たったのだろう。
続いてラケルは、竹を削って作った小さな匙を使い、傷口の奥に溜まった膿を掻き出す。鉛玉で蓋をされていた膿が解放され、匙に絡まってどくどくと溢れ出す。膿を出し切きると、ラケルはロドリゴから真っ赤な火箸を受け取り、おもむろに傷口に押し当てる。
「ぐわあああ!」。
田川は麻縄を嚙み千切らんばかりに噛みしめ、白目をむく。ここですくんではならない。しっかり処置しなくては、必ずまた化膿する。そうなったらもう田川の体力は持たないだろう。ラケルは躊躇うことなく傷口の細部まで火箸を当てる。そして、処置の手ごたえを確信すると、焼酎で全体を洗い流す。その後、大黄や地黄などの薬草を元に調合した抗炎症薬を塗布する。ディエゴ、ロドリゴと協力して患部に包帯を巻く。全ての処置が終わったとき、既に太陽は空に高く昇っていた。