安寧の日々
「よし。これでいいだろう。この添え木を外さず、しばらく安静しているように。貼ったのはよもぎを蒸して揉んだ湿布だ。余分に渡すから、熱がしっかり取れるまでこれを定期的に張り替えなさい。三日後に、また来るんだよ」。
ラケルは、腕を骨折した大工の見習い少年にそう告げる。アウロラ号の修理中に、誤って足場から落ちたらしい。
「へえ。ラケル先生。ありがとうございます。またお世話になりますで。先生、日本語お上手になりましたな」。
少年はうつむきながら、ぼそぼそとした言葉でラケルに礼を言う。
「なんだいしょんぼりして。あんたくらいの歳の時はね、失敗しただけ人間の値打ちが上がるんだよ。早く一人前になって棟梁を支えてやるんだ。しゃんとしな。棟梁のとこに弟子入りさせたうちのロドリゴだって、めきめきと腕前を上げているよ。あんたも頑張りな」。
ラケルは立ち上がった少年の肩をぽんと叩く。その拍子に、少年はうつむいていた顔を上げる。見下ろすラケルと目が合う。そのとたん、少年の顔は秋の紅葉のように赤く染まる。ディエゴから海賊と揶揄されたラケルの風貌は、生活を船の上から陸に移したことで、もはや別人といえるほどの変化を見せていた。髪は後ろで縛りっぱなし、着ているものも町の平民と変わらぬ粗末な着物、それも男物だ。しかし、それでも丈が足りないその裾から伸びる長い脚は、日本人の少年にはこの世の人のものと思えなかった。そして、着物の胸元から覗く、少し褐色を帯びた肌に、純朴な少年が動揺するのも無理はなかった。すると、薬草をすり潰しながら二人のやり取りを聞いていたディエゴが、横から口を挟む。
「弥助!大工が足場から落ちてるようじゃ話にならねえ!棟梁だってきっとがっかりだ。早く治してまたしっかりやれ!」。
ラケルは微笑みながらその軽口を横で聞きつつ、体は既に次の患者への対応に向かっている。
時は天正四年。ラケルの一行が松浦家の庇護のもとで医院を開いてから、はや三年近くが過ぎていた。しばらくは異人の妖術かと怖がられ、寄り付くものは少なかった。しかし隆信は、ラケルが罪人の治療を首尾よくやり遂げた事を確認すると、戦で負傷した武士の治療を、積極的にラケルにやらせるようになった。やがて、農作業や漁で怪我をした農民、漁師なども、ラケルを頼ってくるようになった。どんな患者もラケルは丁寧に治療に当たった。
患者の中には、田川のような棄教キリシタンもいれば、信仰を守り続けている者もいた。中には片言のポルトガル語を話すものもいた。ラケルは、キリシタンの医師を装いながら彼らの治療を続けるうちに、日本語を覚えた。田川のような異常な観察眼を持つ者は平民のキリシタンにはいなかった。ラケル達も、そのような疑念を抱かせるような行動には細心の注意を払った。そして隆信は、ラケルらがキリシタンではないことを知っても、咎めることはなかった。
ラケルは、請われれば隆信の屋敷で拝謁し、異国事情や貿易のことを話した。安息日には医院を閉めたし、仮庵の祭りの時期などは長く休診した。しかし、薬の調合や調達で医院を閉めると言えば、疑う者もなかった。
この時期の平戸生活は、女の生涯を通じたディアスポラの旅において、最も安寧に恵まれた日々だったといって良い。ヴィゼウでも、ゴアでも、マラッカでも得られなかった束の間の平穏を得て、ラケルは医術の研究にも精力的に励んだ。平戸の日本人医師とも交流し、日本の薬草の種類や処方の仕方について学んだ。彼らに請われたら、自分が持つ医療の知識も惜しみなく伝えた。こうした活動の裏には、言うまでもなく隆信の手厚い庇護があった。
心を濡らす悲しみや、動揺をもたらす出来事がなかったわけではない。ペレイラが死んだことは、医院を開業してからしばらくして知った。医院が軌道に乗り、薬草や香辛料の追加が必要になったところで、ラケルは中国商人を通じてペレイラに発注を出した。しかし、航海を任せたディエゴが持ち帰ったのは、彼の自死の知らせだった。
ヤハウェの教えにおいて、自死は大きな罪である。その律法を破ってまで、彼を死に向かわせたものはなんだったのか。そこに自分の逃避が関係しているのか。知らせを受け取ってからしばらくの間、ラケルはそのような問いで自分を苦しめた。マカオに舞い戻って、その真相を確かめることさえ頭をよぎった。
しかし、そのような行動で、ペレイラに救われた命を危険にさらすこと自体、彼が望まないことは明らかだった。それに、今平戸を離れたら、戻れる保証などない。
ディエゴは、ペレイラに生かされた命を正しく使いたいなら、この地で、千の人を助けよと言った。ラケルは、ディエゴのその言葉に救われた。
ラケルにとって幸いだったのは、ペレイラの死も、松浦隆信のラケルに対する処遇に大きな影響を与えなかったことだ。ペレイラの死により、隆信が期待した鉄砲の玉や硝石の取引は、ほとんど望めない状況となった。彼の跡を継いだ者との取引は、薬草、香辛料や絹糸などを中心に細々と続いたものの、その量は船団を組むほどには達しなかった。ましてや、仕入れ競争が激化している弾丸や硝石を調達する力は、ペレイラの後継者にはなかった。しかしそれでも隆信は、ラケルをマカオに追い返すことはしなかったし、これまでの待遇を変えることもなかった。
そしてラケルは、ペレイラが関心を示していたもう一つの事柄についても、自らの関心を振り向けた。この日本という国の形。すなわち、信仰と統治の在り方についてである。それを理解できたところで、手紙に綴り、送る相手はもういない。しかしそうと分かっていても、ペレイラが知りたいと思った事を、ラケルは知ろうとするべきだと思った。それもまた、彼に生かされた命の、正しい使い方だと信じたからだ。
須古踊り
「弥助。このお祭りと踊りは、何をお祈りしているんだい?」。
夏の潮風が吹くある日の午後のこと。弥助とロドリゴにせがまれたラケルは、診療を早めに切り上げ、夏祭りの見物に出た。すっかり怪我が治った弥助の背は、ひと夏ですっと伸びた。少し前までラケルの胸元にあった弥助の頭は、今は肩口にある。弥助の後ろにはロドリゴが立っている、ロドリゴの目の前を、踊りの行列がゆっくりと練り歩いていく。ロドリゴはそれを、興味なさげに眺めている。この行列は、この祭りの最大の催しのようだ。一行はゆっくりとした速さで、見物人に踊りを披露する。そして、町の人々が宮の前と呼ぶ大きな広場を過ぎていく。その先にある神社の境内で、踊りの奉納をするようだ。
「これはさ。須古踊りっていうんだよ。でもこの踊りは最近始まったんだ。お盆に帰ってくるご先祖様と一緒に、豊作とか、豊漁とか、無病息災とか、そういうのをお祈りしてるのさ。父ちゃんがそう言ってたよ」。
弥助は、ラケルにそう答えるが、その心は上の空といった様子だ。宮の前の広場には市が立ち、茶屋が簡素な出店を広げている。茶屋の主人は、美味そうな団子や飴で客を誘っている。弥助の心は、もはやすっかりそちらにくぎ付けである。
「姉さん。俺たちも、ちょっとあっち見てきていいかな」。
団子や飴に気もそぞろなのは弥助だけではない。ロドリゴも同様だ。弥助とロドリゴはまだ、数え十二歳と十四歳だ。厳かな祈りの行列より、美味そうな団子に惹かれるのは無理もない。
「ロドリゴ。これで弥助の分と一緒に買っておいで。ディエゴにも食わせてやりたいから、その分もこれで買って、持って帰って来ておくれ」。
ラケルはそういってロドリゴに小銭を渡す。二人の少年の顔にパッと笑顔が広がる。受け取った小銭を握りしめた二人は、茶屋に向かって駆け出す。その後ろ姿を見送るラケルの顔を、まだ力強さを失わない夏の午後の日差しが照らす。周囲の人々は、その姿に言葉もなく嘆息する。そして、すっかり土地になじみ、町言葉まで巧みに使いこなすこの女医者が、やはり異国の者だということを改めて知る。
ラケルはそんな周囲の目線を気にも留めず、神社の境内に上がっていく踊りの一行の跡を追う。この踊りは、何を意味しているのだろうか。弥助は先祖の霊が帰ってくると言った。それはこの夏の一時期なのか。それともその霊は、しばらく居続けるのだろうか。この境内がある場所は、神社と呼ばれている。しかし、この行列はここに来る前、仏門の寺前でも同じように踊りを奉納したようだ。
寺とは、大陸伝来の仏教の教会だ。そこで日本人は仏像を拝む。これはペレイラからも聞いた通りだ。ではこの神社というのはなんなのだろう。この国の太古の大王と関係するのだろうか。太古の大王も、仏教を信仰したのだろうか。寺にも神社にも踊りを奉納するならば、まだこの地に細々と残るというキリシタンの教会の前でも、同じように踊るのだろうか。ラケルは残念ながらまだ、このような疑問に答えてくれる日本の知古を持たない。
しかし、こうした思いを、好奇心のまま周りにぶつけてはいけない。抑制できぬ好奇心が時に災いをもたらすことを、ラケルは追われる人生の中で学んできた。焦ることはない。この地での安寧が続けば、いずれわかる時が来るだろう。境内にたたずみ、ラケルはぼんやりとそんなことを思う。
ヴィゼウで生を受け、インドに逃れ、マラッカに飛んだ。そして、マカオを経てここ、平戸まで流れ着いた。なに一つ自分で望んだことではない。それでも、この東洋の果ての国で、今自分は穏やかに暮らせている。もしかしたら、このまま自分はこの地で生を全うできるかも知れない。もしそうならば、私はこの地で、出来るだけ多くの命を救って死にたい。
気が付けば、奉納の神事は既に終わり、境内は閑散としている。晩夏の熱い太陽も、あと数刻で、神社の奥に広がる山の影に沈むだろう。林の中からは、鈴虫の鳴き声が聞こえる。この国の人は、虫の声に聴き入るという。ラケルが診た、目の見えない老婆がそう言っていた。少し前までは、耳障りな雑音にしか聞こえなかった鈴虫の音は今、ラケルの心にも染みわたる。
晩夏の黄昏時の風は、既に秋の気配を漂わせている。春夏秋冬。何回か繰り返した平戸の季節の中で、ラケルはその変化の美しさに心奪われずにはいられなかった。この地であと、どれだけの季節を繰り返すことができるだろう。できることなら続いてほしい。日暮の風の中で、ラケルはそう願う。