王直の屋敷
田川の部下に連れられて、ラケル一行はほどなく屋敷につく。徒歩で二刻ほどの距離だ。かつて王直が平戸に逃れ住んだというその屋敷は、隆信に謁見した高台の屋敷から、小さな入り江を挟んだ西の丘の上に佇んでいた。屋敷には、隣接して小さな寺もある。その寺を眺めながら、ラケルの一行は屋敷の中でしばし体を休める。見慣れぬ日本家屋にディエゴは眉を顰める。一方で、ロドリゴは好奇心を隠しきれない様子だ。ラケルは何も語らず、ただ座り込んで田川の到着を待つ。
田川はほどなく、馬に乗って現れた。そして、数名の配下を従えて屋敷の前に降り立つ。そして、寺の前を通り抜けてラケルの前まであゆみを進める。田川は、この国の男としてはかなりの長身だ。ラケルより少し高く、ディエゴよりは低い。非常な細身だが、その骨は弱々しい小枝ではない。樫の硬木のような固さと重さを兼ね備えていることが、ひしひしと伝わってくる。腰にまとう二対の刀剣は、この国の者をまだ見慣れぬラケルにも、それが既に男の血や肉と融和し、この男と一体になっていることが分かる。田川は、小さくもなく、大きくもない、しかし重さのある声で訥々と語りだす。そのポルトガル語は、訛りがひどいものの、文法はほぼ正確だ。それは、この男の知性が普通ではないことを雄弁に示している。
田川の説明によれば、この寺はポルトガル人がこの地でキリスト教の布教を許されていた頃、キリシタンの教会だった。ラケルは、なぜ田川がキリシタンの洗礼を受け、そして棄教に至ったのか、すぐにでも詳しく聞いてみたい衝動に駆られる。しかし、焦ってはならない。まずはこの、椅子も寝台もない日本式の屋敷に住むことに慣れることだ。そして間もなく連れてこられる病人や怪我人をできる限り治療し、信頼を得る。ラケルは胸の内でそうつぶやく。
その時だった。田川は突然、驚くべきことを口にする。
「おぬしらは、キリシタンではないな?」。
後ろを向いたとたんに、背中を鋭利な白刃で袈裟懸けにされたような衝撃が、ラケルの体を突き抜ける。なぜ? どうしてばれた? しかも日本に上陸してわずかの間に。ディエゴの顔からも、たちまち血の気が引いていく。それでも彼は、表情からなにも悟られぬよう、必死で動揺を隠している。
しかし、ロドリゴはひどく狼狽し、呼吸さえ満足にできず激しくせき込み、嗚咽する。無理もない。まだ子供なのだ。もはや、ラケルがどれだけその場を取り繕っても、ロドリゴの狼狽は、田川に確信以外のなにも与えないだろう。それでもラケルは努めて平静を装い、言葉を絞り出す。
「田川殿。なぜそのようなことを? 我々は貿易商人であり医者でありますが、その前に敬虔なるキリスト教徒でございます」。
田川はそれには直接答えず、話を続ける。
「そなたらとわしが隆信公に謁見している間、貴殿の船を部下に臨検させた。隅々までな。隆信様のご命令だ。当然であろう。異国の船を受け入れたのだからな。そこで床下に隠された燭台を見つけた。隠し船倉のこしらえは見事だった。先ほど私も見てきたよ。普通の者なら決して気づかぬであろう。しかしうちの船大工が気がついた。研究熱心な男でな。かつてポルトガル船が出入りしていたころ、その構造をよく学んでおった」。
よもやあの隠し船倉があっさり見破られるとは。決して対処を疎かにしたわけではない。キリスト教徒に臨検されても分からぬよう、常に細心の注意を払ってきた。にも拘わらず、わずかな時間であっさりと見つかった。これは、その船大工が特別な者なのか。それとも日本人という民族そのものが、奇妙な観察眼を持つのか。その答えを知るためには、まずは突然訪れたこの修羅場を、なんとかやり過ごさなくてはならない。
「田川殿。あれの燭台はただの・・・・」。
言いかけるラケルの言葉を遮り田川が続ける。
「あれは、恐らくユダヤの祭日を祝うための燭台であろう。足が九本あった。あのような燭台はキリシタンどもの間では使われておらなかった。ポルトガル商人達も、イエズス会の連中も、かつて酒に酔っぱらうとよく言っておった。ユダヤの者どもは、足が九本ついた燭台に蠟燭を灯して冬の祭りを祝うとな。その者たちはやがてこの地にも流れてくるだろう。もしその燭台を隠し持つものが現れたら、すぐにイエズス会に通報してくれ。褒美は弾むと」。
ラケルはその田川の言葉を聞き、もはや隠すことが困難であることを悟る。この状況下でなお、キリシタンを演じることは安全より危険をもたらす。ラケルはそう直観した。
「して、もし我々がそのユダヤの民だったとき、どうなりますでしょうか」。
そのラケルの問いを横で聞いているロドリゴは、既に顔面蒼白で今にも気絶しそうである。東の果てまで命懸けで逃れてきたのに、たった一瞬で全てが泡に帰すのか。ロドリゴの表情を見つめながら、自らの人生の転換点が突然目の前に来たことを、ラケル自身も自覚する。
「なにも起きんだろうよ。恐らくな」。
田川は拍子抜けするほど淡々と、表情も変えずにそう返す。
「おぬしも隆信様に拝謁して感じておるはずだ。殿はキリスト教を警戒しておる。私もかつてキリシタンとなった身だが、それは隆信様の命によるものだ。そして、私が既に棄教しているのも、同様に隆信様の命である。従って、キリシタンどもが敵と呼ぶおぬしらは、むしろ隆信様にとっては扱いやすいはずじゃ。しかし、おぬしらがもしそのユダヤの教えなるものを、キリシタンの教えに代わってこの地に布教し、日本人を改宗させたいというなら話は別だ。それは、隆信様のご意向に逆らうことになるだろう」。
ラケルはその言葉に即座に反応する。
「誓ってそのようなことはございませぬ。我々の信仰は、数千年前の始祖から受け継がれた、ささやかな民族信仰であります。ただただ、始祖が結んだ神との約束を、一族で守り続けたいのみでございます。我々の信仰に、布教という概念はございません」。
田川は無言で軽く頷く。
「おぬしらの信仰がどのようなものかは、おいおい聞かせてもらう。いずれにしても、そなたらがキリシタンでないことは、殿にはお伝えせねばならぬ。しかしそれがそなたらの医院や貿易を中止に追い込むことはないだろう。そなたらが、キリシタンから追われているユダヤのものであるならば、平戸松浦家に庇護を求めたことは恐らく悪い選択ではない。これも王直の導きかも知れんな。もしおぬしらが長崎にいっておれば、恐らく今頃、イエズス会に捕縛されておった」。
ラケルは、田川の言葉のひとつひとつに込められた意味の重さに、もはや、思考が追いつかない。しかし、田川の話は、これまで見聞きした全ての事柄とも整合している。今は、この男の判断に運命を一任する以外、選択肢はないだろう。ラケルはそう判断する。
「田川殿。なにとぞ、寛大な処置を賜りますよう、松浦様にお伝え願いたい」。
田川はその言葉には答えない。すでにその足は屋敷の外に向かいだしており、ラケルはその、細くて長い、しかし確かな威厳を感じさせる背中を、ただ見送ることしかできない。
「そなたは何よりまず、この屋敷で病人・けが人を治す準備を整えよ。そなたがやるべきことは、それじゃ」。
田川は馬に素早く跨ると、馬上から太い声でそう告げる。そして、高台にある隆信の屋敷の方へ走り去っていった。その通りだ。まずはこの地で医院を立ち上げ、隆信、田川らの支配層だけでなく、平民たちの信頼も得なくてはならない。すべてはそれからだ。ラケルはそう腹を括るとさっと立ち上がり、まだ茫然としているディエゴとロドリゴに話かける。あえて笑いながら、冗談めかして。
「いや、驚いた! こんなにもあっさりとばれちまうとはね。しかし、事の流れによっては、ばれちまったことで良いほうに転がるかも知れない。少なくとも、悪い方向にはいかない気がするよ。そうと決まったら、我々がやれることは単純だ。一日も早く医院を開業し、けが人、病人を治してこの土地に馴染むことだ」。
それに呼応して、ディエゴがようやく口を開く。
「あの田川ってのは相当な切れ者だな。ただの通詞じゃねえ。あの隠し船倉がばれなくても、いずれは気づかれただろうな。そんな気がするよ」。
横で聞いているロドリゴは、まだなにもしゃべることができない。ただただ、震えるばかりである。
「ロドリゴ。怖かっただろう。無理もない。あんたの魂はまだ、ウズラの卵みたいに柔らかくて、繊細なんだ。取り乱さなかっただけ立派だよ」。
ラケルの言葉がロドリゴの表情を少しだけ緩ませる。なにかしゃべろうとするが、声にならない。ディエゴが、そんな重苦しい空気を振り払うように声を張り上げる。
「さあ。そうとなれば、まずはこの屋敷を俺たちが住める場所にしなくちゃな。薬草も揃えて、調合できるようにしなくちゃならねえ。しばらく海賊家業はお預けだ!」。