第三章-静謐
松浦隆信
「なぜ長崎ではなく、平戸に来たのだ?今、ポルトガル船のほとんどは横瀬浦辺りに出入りしておる。知らんのか」。
平戸松浦家第二十五代藩主、松浦隆信は、日に焼けた異国の女を前にそう問いかける。ラケルはその表情に、明らかな警戒と、少しの苛立ち、そして葛藤のようなものを感じ取る。しかし、なにがその根幹にあるのか、ラケルにはまだ分からない。
ラケルのポルトガル語を通訳するのは、田川清兵衛という棄教キリシタンである。かつて平戸にキリスト教が上陸したときに洗礼を受けた。そして、キリシタンとしてポルトガル商人やイエズス会の宣教師と交わりを持った。田川は自分のことをそう語った。この男にも用心せねばならない。ラケルは、一つ一つの言葉を注意深く選ぶ。
「私がマカオで知古を得たポルトガル商人が、王直氏の昵懇でございました。ペレイラというものです。ポルトガル商人にも縄張り争いがございます。横瀬浦、あるいは長崎に出入りしている者たちは、恐らく王直とのつながり薄き者達です。私は、信頼できる友人の助言を最も大事に致します。ペレイラの助言に従い、日本に入るならば、まず松浦様にお目通り願うべきと判断致しました。また、そのような事情ゆえに、ほかの日本の港のことは恥ずかしながら殆ど知りませぬ」。
「王直か。懐かしい。あれは素晴らしい漢だった。冷静にして沈着。しかしいざ、ことが動けば大胆にして迅速。取引も綺麗だった。それなのに、明国はあのような男を捉えて、ただ殺してしまった。私はそのことに、明国の衰えを痛感したよ。人を見出し、生かせなくなったときに、国は縮んでいくのだ」。
王直を懐かしむ隆信の表情には、もう会うことのできない哀しみが滲み出ている。ラケルはその表情に、王直について語ったときのペレイラのそれと、重なるものを観る。
「私もペレイラより、王直氏の人柄については聞き及んでおります。ペレイラは、王直が部下を連れて日本に逃れたのち、インドやポルトガルの物品を王直に売って彼の貿易に協力しました。この商いを太くするために、ペレイラはずいぶん骨を折ったようです。もちろん彼が王直と取引したのは、商人としての利があったからでございます。しかし、追われる身の者と手を組むことは、当然危険を伴います。ペレイラはその危険を冒してでも王直と取引を続けることを選びました。彼もまた、王直を深く信頼していたのだと思います」。
ラケルの言葉を、田川が訳す。もちろんラケルには日本語が分からない。しかし、田川の通訳が進むにつれ、隆信の表情から、疑念の色が薄まっていくのが分かる。田川のポルトガル語は、ある程度信頼してよさそうだ。
「王直を信じたペレイラという商人。そのペレイラとつながりを持つそなたが、王直の手下を通じて私を訪ねてきた。私もこのような縁を大事にしたい。ラケルよ。この平戸で何がしたいか、言うてみよ。できる助力はしよう」。
隆信はそうラケルに告げた後、にわかに表情を険しくし、付け加える。
「ただし、キリスト教の布教はならん。よいか」。
それは、ラケルの前で最初に現れた、平戸の王としての隆信の顔であった。ラケルは、日本語で発せられたその言葉が、逆らってはならないものであることを全身で感じ取る。幸いなことに、ラケルにとってその命令に従うことは、至極たやすい。
「隆信様。私はキリスト教徒でございますが、生業は医者であり、商人でございます。医者は患者の身体と命を救うべく精進すべきもの。魂の救済は私の本業ではございません。この平戸にて、日本の人々をキリシタンに改宗させるような試みは一切致しません」。
そこでラケルは一度言葉を切り、田川の通訳を待つ。それを聞いた隆信の表情が和らぐのがはっきりと分かる。この地に暫く留まることになるなら、早く日本語もおぼえなくては。頭の片隅でそう考えながら、ラケルは言葉を続ける。
「隆信様。その上で私がお許し願いたいのは、この平戸にささやかな医院を開かせていただくことでございます。私は、ポルトガルで身に着けた医術をもとに、国々を旅しながら、その土地で使われる薬草やその煎じ方、処方の仕方などを学び、研究して参りました。こうした技術を松浦様の領地の人々のお役に立てたく存じます。そして、私の医院がお役に立てれば、異国からさらに生薬や香辛料を仕入れますので、物によっては大きな商いにもなります。商売の利の一部は隆信様にお納め致します。もちろん、隆信様がご所望の物があれば、マカオのペレイラに依頼し取り揃え、献上したく存じます。平戸の産物を輸出することもできましょう」。
隆信は、ラケルの言葉にあからさまな関心を示す。
「なるほど。貴殿は自ら商品の使い方と効能を示し、そのうえで取引を拡大させたいわけだな。生糸の商人が、それで作られた異国の服を見せながら糸を売るように、だ。面白い。そなたの医院、後押ししよう。わが家臣、領民。病も傷も絶えぬからな。そなたの医院が役に立つなら、我々にとっても良いことだ。して、商売の利の一部とは、どのくらいじゃ。何割を我らに納めるつもりだ?」。
ラケルは隆信の理解と判断の速さ、そして繰り出される問いの鋭さに驚く。最初の謁見で、たった二言三言を交わしただけで、利の分配にまで話が及ぶとは。ラケルは内心の焦りを悟られぬよう平静を装う。同時に、必死で頭を回転させる。どう答えるべきか。即座に判断し、正しく返さなくてはならない。
「五割。貿易で得た利の五割を隆信様に献上致します。これは、隆信様の庇護のもとで初めて可能な商売です。本来は七割、あるいは八割を献上すべきと存じます。しかしながら、この平戸港。天然の要塞でございます。入り組んだ入江、複雑な海流と地形。刻々と変わる風。我々も、中国船の案内と航海士の腕がなければ、入れなかったかも知れません。船への負担は軽くない。船の補強や人員の充実、修理の負担は、全て我らの利から出します。それを踏まえての五割でございます」。
ラケルは、このようなやり取りを数限りなく行ってきた。それは貿易商人としての核心である。しかし、何度繰り返しても、正解というものが分からない。相手によっては、七割でも足りぬと激高する、強欲な者もいる。他方で、五割の分け前で満足する身内も少ない。別の間で控えているディエゴが聞いたらなんと言うだろう。五割では話にならないと憤慨するだろう。実際のところ、商売が赤字になる可能性がある。しかし、今は貿易の利よりも、隆信の信頼獲得と安全の確保が優先だ。ディエゴもわかってくれるはずだ。
「四割。そなたが我々に献上すべきはそれで良い。さらに、船の修繕、航海に必要な食糧、水、不足するなら人足も出そう。但し、貿易品の三割は生薬ではなく、鉄砲の玉、火薬の確保に優先的に充てよ。多ければ多いほど良い。集めた分は全部買う。それから、当然だが貿易を平戸以外のものと行ってはならん。貴殿との貿易相手は、日本においてこの松浦のみだ。良いな」。
ラケルに反論の余地はない。そして実際、隆信の提案は実に的確といえた。利の六割が得られれば、航海を継続的に行うことができるだろう。そして、もともと平戸以外の土地との取引などできもせぬし、するつもりもない。松浦家が独占権を持つことはなんの異論もない。問題は鉄砲の玉と火薬だ。しかし、これはペレイラと協力してなんとかするしかない。
「平戸の王、松浦様。寛大なるご処置。深く感謝申し上げます。全て承りました。我々は王の庇護のもとにまず医院を軌道に乗せ、その上で貿易において王に貢献すべく尽力致します」。
隆信はラケルの返答に小さく頷いたあと、日本語で口早に田川に命ずる。
「この女の話、試す価値はある。進めるぞ。王直が使っていた屋敷を貸し与えよ。但し、この女の医術がまやかし、あるいは毒などを用いて何かを企てておらんか、当面お前がしっかり監視せよ。まずは捉えておる罪人の中で、病、傷あるものをこの女に診させるのだ。そこで腕をはかる。役に立たなければマカオに追い返せ」。
田川は無言で頷く。ラケルがそのやり取りを理解できるはずはない。しかし、彼女をここまで生き永らえさせた直感は、ほぼ正確に事態を捉えている。どこの国でも初めての医者を使うときは、罪人や奴隷などで首実検するものだ。自分も、逆の立場ならば、そうするだろう。淡々と仕事をこなすだけだ。
隆信は、ラケルに手招きしながら立ち上がる。そして、屋敷の外を一望できる物見の場にラケルを誘う。
「ラケル殿よ。美しい風景だろう。平戸は小さな土地だ。しかし、海もあり山もある。大小さまざまな島々もある。豊穣の地じゃ。わが一族と平戸の民草は、先祖代々この土地に守られてきた。同時に異国の文化文明が最も早く日の本に伝わる玄関口でもある。そしてまた、おぬしが現れた。これも縁であろう。入江の向こうに小さな丘があるのが見えるか。あそこに、かつて王直が使っていた屋敷と、小さな寺がある。あの屋敷を使うが良い。そなたの手勢の者がみな、問題なく住める程度の広さはあるだろう」。
「心より、感謝申し上げます」。
その横顔を目にしながら、ラケルは初めて接したこの王について、胸の中で総括する。背の丈は低いが、それはこの国の者、みな同様である。この国では、ラケルはかなりの大女になる。ディエゴに至っては、日本人から見れば牛馬のごとくであろう。しかし、隆信のその小さな体からは、抗し難い威厳が発せられている。それが、周囲の者に、語らずして恭順を強いている。そして、そのような威厳を放ちつつも、尊大ではない。自らの当面の命運を賭ける価値がある王だ。ラケルはそう判断する。
「平戸の王、松浦隆信様。この度は、たった一通の書状を懐に、突然飛び込んできた異国の者に、寛大なる施し。このラケル一同、心より深く感謝申し上げまする。港に泊めおきました船に、生糸、ガラス細工、銀食器などを積んでおります。些末なものですが、全て南蛮の物品です。最初の貿易品として、これらは全て、松浦様に献上致します」。
隆信の表情が色めき立つ。そして、すぐに尋ね返す。
「鉄砲の玉もあるか」。
ラケルは首を振って応える。
「松浦様。あいにく鉛は積んでおりません。ですが、火薬に使える硝石は少々ございます。全て、松浦様に献上させていただきます」。
「おお!そうか、そうか! それは吉報じゃ。感謝致すぞ。そなたがこの平戸に逗留し、医院を営む間、そなたらの安全と生活はこの松浦が保証しよう」。
ラケルは畏まってその言葉を受ける。頭の中で、ペレイラの顔を思い出す。必ず感謝を伝えなくては。そう思いを巡らすラケルに、隆信がもう一度釘を刺す。
「但し、先ほど申し伝えた通り、キリスト教の布教だけはならん。禁教せよとは言わん。しかし布教はならん。よいな。硝石とそのほかの積み荷は港に取りに行かせる。そのつもりでおれ」。
そういうと、隆信は返事も待たずに屋敷の奥へと消えていく。通詞の田川が、急ぎそのあとを追う。また、なにか話すのだろう。
だだっ広い謁見の間に残されたラケルは、素早く頭の中で状況を整理する。この平戸に、もうポルトガル商人がいないことは確かなようだ。王直の部下たちも、我々が平戸を目指したいと言ったとき、平戸より長崎に行けと言ってきた。しかし、ラケルは平戸に拘った。ペレイラや王直と直接つながりのない商人と行動を共にするのは非常に危険だ。そして何より、ペレイラと王直、そして隆信の信頼関係。そこをないがしろにすべきでないと考えたからだ。そしてその判断は、今のところ正しかったように思える。隆信は賢君だ。ペレイラも聡明な男だったが、隆信の判断力、統率力、洞察力はそれをさらに上回っている。
そして、もうひとつ分かったことがある。平戸の領主は、キリスト教を非常に警戒している。理由は分からない。
(やれやれだ)。
ラケルは心の中で苦笑する。キリスト教徒に狩られぬよう、地の果てまで逃げてきたのに、今度はキリスト教徒のふりをしていることが、我が身を危険に晒しかねない。これもまた、ヤハウェの試練か。胸の内でそう呟いたとき、通詞の田川が戻ってくる。
「ラケル殿よ。松浦様の仰せの通り、王直の屋敷へ案内しよう。但し、私は後から行く。別の者に案内させる故、着いたら先に中で休んでおれ」。