脱出
「ペレイラ様。非常によくない情報です。たった今聞きつけて参りました。ゴアの異端審問所から派遣された人物が、昨日マカオに到着したとのことです」。
ラケルとの晩餐から数日後。ペレイラは既に目を覚まし、朝焼けを眺めながら茶を飲もうとしていた。その前に、ただならぬ表情をした部下が飛び込んできてそう告げる。ペレイラの表情に旋律が走る。
「続けよ。把握したことは全て話してくれ」。
「畏まりました。マカオ司教区に出入りのあるものからの情報です。ゴアの異端審問所より、フェリペ・ゴメスなる人物が派遣され、聖務裁判所長として着任した模様です。この人物は、背教と疑わしき新キリスト教徒、コンベルソら、すべてを逮捕する権限を与えられているとのことです。また、背教の者がマカオ・中国・そして日本へ渡航することを全て禁じるため、検分を強化していくとのことでございます」。
思ったよりはるかに対応が早く、そして厳しい。しかし、詮議している暇はない。ここから先、ラケルの一行にはもはや一刻の猶予もないことを確信する。
「ラケル殿を呼べ!すぐに出発させる。半刻で支度せよ。滞りなく!」。
ラケルは、ディエゴ、ロドリゴと共にすぐペレイラの前に現れた。こうなることは十分に予想していた。既に準備はできている。
「ペレイラ殿。状況は既にお聞きしました。かなり早いが、異端審問所の力がマカオでも強まることは想定していたことです。我々がマラッカから逃げだしたことも、把握している可能性があります。もしかすると・・・」。
そこまで言いかけてラケルは口をつぐむ。状況次第ではペレイラ自身にまで嫌疑が及んでもおかしくない状況になりつつある。しかし、それを口にしたところで、ラケルにはどうすることもできない。ペレイラはすぐにラケルの不安を察する。
「ラケル殿。わたしの心配をする必要はない。あなたが早く出発することで、私にも時間ができる。とにかく急ぐのだ。そなたの積み荷に、少しの硝石も積んでおいた。時間がなくてわずかしか集められなかったがな。何か役に立つこともあるだろう」。
今夜、もう一度ラケルと晩餐を囲みながら伝えようとしていた事を、ペレイラは一気にまくし立てた。そして、少しほっとして目の前のラケルの顔を改めて見つめる。そして、小さく息をのむ。灼熱の太陽に焼かれ、潮風にまみれていた女は、たった数日、屋根の下で強い日差しから逃れていただけで、その美しさの片鱗を取り戻していた。柔らかさの中に強さが同居する瑠璃色の眼差しは、焼け焦げた肌の浅黒さが少しおとなしくなったことで、一層鮮やかに輝いている。肩から降りる栗色の髪は、豊かな胸のふくらみの上でさりげなく踊り、美しい曲線を描く。その瞬間、ペレイラの目の前を、白刃で切り付けられたかのような一条の光が走る。
「そなた。もしかして、ラビ・アブラハム・ド・ヴィゼウの元で律法と医学を学んでいた、グラシアか?」
突然、昔の名を呼ばれたラケルは、思わず声を上げる。
「なぜ、その名を? ペレイラ殿・・・・」。
そこまで言いかけて、ラケルの眼にもまた、閃光が走る。
「もしや、あそこで天文学の講義をされておりましたか? 名は確か、ダヴィド・アマル?」
やり取りを傍らで聞いていたディエゴには、二人の間にあった、数十年の時間の壁が溶け落ちていく様子が手に取るようにわかる。ロドリゴはただ、幼さが抜けない好奇の眼で二人を観察し続ける。
「互いに思い出したようだ。いかにも。私はラビ・アブラハム・ド・ヴィゼウの元で天文学と航海術の講義をしていた。ダヴィド・アマルである。グラシア、いや、ラケルと呼ぶべきだな。そなたはまだ少女といえるほどの年齢であったが、卓越したその才を認められ、既に医学の基礎を学んでおった。なんと懐かしい」。
「ダヴィド、いえ、ペレイラ殿。あなたは既にあの時、天文学の講義のいくつかを任されておりましたね。あなたが講義も忘れて、星について夢中になって語られていたこと思い出しました。もっと早く思い出しておれば、存分に語らえたのに。残念です」。
「良いのだ。思い出すことができただけ、私は嬉しい。きっとまた語る機会もあろう。今はまず生き延びなくてはならん。急ごう。中国の商人には、そなたの一行を必ず平戸まで案内するよう依頼済みだ。彼らも快く請け負ってくれたよ。そして、領主の名もわかった。 MATSURA。平戸の王の名は、松浦だ。幸い今日は一日西風だろう。そなたの幸運を運ぶ風に違いない。」。
「マトーラ。MATSURA、松浦。ディエゴ、ロドリゴ。忘れずに覚えておいておくれ。我々が必ずお会いせねばならない方だ」。
そういうと、ペレイラは屋敷の門前で既に準備万端控えている商隊にまぎれ込むよう、ラケルらに促す。ラケルは小さく一言、別れの言葉をささやく。最後はヘブライ語である。
「ביום העצבות. מי ייתן וניפגש שוב בשלום.(悲しみの日に。平和のうちに再び会えますよう)」。
ペレイラは、門を出ていく隊列を無言で見送る。
「ラケル。そなたの日本からの便りを待とう」。
消えゆく隊列の背に、ペレイラは一人そう呟いた。しかし、ペレイラとラケルが再び逢うことはなかった。このわずか数か月後、ペレイラは自らの命を絶ったのである。その理由はもう、誰にも分からない。