素晴らしい晩餐
「ヘブライ語の符丁を投げられることはあるが、ラディーノ語を聞くとは思わなかった。危うく声が出るところであった」。
ナツメグとターメリックをベースとした香辛料をふんだんに使った、鶏肉のローストに舌鼓を打ちながら、ペレイラがそういって笑う。ペレイラの私的なダイニングで、二人は夕餉を楽しんでいる。料理には、ラケルが贈った香辛料がふんだんに使われている。どの料理も、インドで口にしたことはない。ポルトガル料理とも少し違う。この土地の食と、インドやポルトガルの食文化が、巧みに融合しているのだろう。料理人の腕も特別であることは疑いがない。
「はい。ペレイラ様が、マカオのスファラディの中で重要な役割を果たされていることは聞いておりました。私はポルトガルの出身ですが、祖先は千四百九十二年の大追放の前、代々スペインに根を張っておりました。ペレイラ様であれば、きっとラディーノ語でお判りいただけるかと」。
「その用心深さがそなたをここまで連れてきたのだろう。そなたは正しい。このマカオでも、我々にとって安寧はない。ゴアの異端審問所の影響力は日々増してきてるといって良いだろう。あいつらは密告者に褒賞を渡すのだ。密告された者の財産を奪ってな。最近ゴアの異端審問所から出た勅令では、告発されたコンベルソの財産は、半分を異端審問所が取って運営費に充て、残りの半分は告発者に与えられるそうだ。金欲しさに仲間を売るものさえいる」。
「そうして我々の分断を図るのも狙いでしょう。用心せねば」。
「そうだ。用心せねば。ちなみに、そなたは私を信用したようだが、良いのかな」。
ペレイラが少しいじわるな顔をしながらラケルに尋ねる。
「我々の祖先がスペインから追放されて、もう百年近くも経ちます。我らの信仰を捨て、キリスト教に転んだ者たちが、ラディーノ語を理解できるとは思えませぬ。それに、何よりペレイラ様は大金持ち。いまさら私のような流浪の貧乏医者を告発して、小銭を稼ぐ意味はない」。
ラケルの言葉にペレイラは満足そうにうなずく。
「いかにも。私は商才に恵まれた。いまこのマカオで私より取引の多い商人は何人もおらんだろう。ポルトガル商人も、私を疑っていないわけではない。しかし、私を売って一時の金を得るより、商売相手として長く取引する方が儲かることを良く分かっておる。彼らの神はデウスではない。金だ。そういう連中のほうがはるかに安心だよ。もちろんマカオ司教区の連中にも、たっぷりと媚薬をかがせておるしな」。
ペレイラは、口を拭いながらそういって笑う。その言葉に陰鬱さはない。運命を受け入れ、したたかに生きる男の矜持が漂っている。
「シナモンと蜂蜜のナッツ菓子だ。当然牛の乳は使っておらんし、油もオリーブ油を使っておる。安心して食されい」。
食事を終えた二人の前に運ばれてきたデザートを前に、ペレイラが説明を加える。ラケルは軽く頷くと、デザートを口に運ぶ。シナモンの香りと蜂蜜の甘さが口に広がる。旅の緊張と疲れを、染みわたる甘さが優しく癒す。ラケルはしばし言葉を忘れてその官能に浸る。そして一息つくと、聞くべきと心していた事を切り出す。
フィランド
「ペレイラ殿。ご存じの通り、我々はゴアから逃げてきました。女の医者と、海賊のような航海士に、子供の水夫見習い。他に手勢が少々。目立ちます。ゴアの異端審問所に所在が知れるのも時間の問題でしょう。船の補修と荷の積み込みに数日。その時間だけいただきましたら、ご迷惑になる前にすぐ立ちます。未知の東洋、ジパングのフィランドに行こうと思っております。ペレイラ様はフィランドについて、なにかご存じでしょうか。少しでも情報を仕入れておきたいのです」。
ペレイラは、デザートと共に運ばれてきた温かい赤ワインに、少しのクローブやナツメグ、そして蜂蜜を入れて口に運ぶ。ヴィノ・カリエンテと呼ばれるスペイン式の飲み方である。
「ここは暑い土地だが、体は温めた方良いというそなたの言葉、聞いたのでな。久しぶりに飲んでみた。なかなか良い」。
「はい。これはとても良い飲み方です。臓腑が温まり、血の巡りが良くなり、病の元を体から追い出してくれましょう」。
「うむ。これからもたまに嗜もう。で、フィランド、だな」。
ペレイラはそこで少し言葉を切る。
「最初にお伝えしよう。我々旧世界の者たちは、かの地をフィランドと呼んでいる。しかし、正しい現地の呼び方は、そうではない」。
そこでペレイラは言葉を切り、ナッツ菓子の最後のひとかけを口に入れ、名残惜しそうに噛みしめる。そして、言葉を続ける。
「HIRADO。ヒラドだ。現地では、フィランドでは伝わらんぞ、きっと」。
「ヒラド。でございますか。なるほど。確かにこれまでに聞いたことがない言葉の趣があります。悪くない。して、ペレイラ殿はその平戸について、なにかご存じでしょうか」。
「うむ。私は直接平戸に出向いたことはない。しかし、かの地について、ポルトガル商人と同程度の情報は得っている。まあ、私も言ってみればれっきとしたポルトガル商人だからな。私も、間接的ではあるが何度も平戸とは取引している。かの地について、私の知る範囲のことは全てお伝えしよう」。
「ありがたい。未知の航海における情報は宝。深く感謝致します」。
「平戸は日本の西の果てにある港の町だ。あの国に旧世界の人間が辿りついたのは、イエズス会のザビエルが最初だ。彼も一時期平戸に逗留し、布教したと聞く。もう三十年ほど前だろう。そこからキリスト教徒は布教を進め、平戸に教会もできたそうだ。日本人の改宗も日々進み、そこにはキリスト教徒が千人といると聞く」。
「なぜ、ポルトガル人たちは平戸に目を付けたのでしょうか?やはり、港が良い?」。
「うむ。いかにも平戸は天然の良港と聞く。操船は多少難しいようだがな。しかし、そこに最初に目を付けたのはポルトガル人ではない。平戸は古代のころから、中国との貿易があった。なにしろ近いからな。平戸とは、平らな門、というような意味らしい。大陸に開かれた、ジパングの扉、ということだな。かつて蒙古が日本に攻め入ったとき、平戸も戦場となり、日本側がこれを打ち払ったと聞く。近年、中国が朝貢以外の貿易を禁じてからは、日本と中国の双方の商人たちはなかば海賊化し、密貿易を続けている」。
「なるほど。世界に開く門、平戸。良い名だ。ただし、門は良いものだけではなく、時には困ったものも招き入れますからな。では、ポルトガル商人たちは中国商人の案内を得てその門を叩き、取引を深めていったということでしょうか」。
「その通りだよラケル。中国の海賊で、王直という大物がいた。十年ほど前に死んでしまったがね。私もずいぶん彼と取引したよ。双嶼港という中国の港を拠点に密貿易をしていた大物だ。役人から見れば海賊だが、我々からすれば立派な商人だった。取引は誠実にして大胆。中国商隊の総帥だったと言っていいだろう。ところがこの王直は、明の官憲に追われるところとなり、双嶼港を追い出されて日本に助けを求めた。王直と取引のあった平戸の領主は、彼を手厚くもてなし、匿ったという。平戸の王も、恐らく王直を深く信頼していたのであろう」。
「なるほど。では、その王直を通じて、平戸の領主はポルトガルとの交易を始めたのですね?」。
「いかにも。平戸の領主は、はるか古代から続く日本の大王から分かれた血筋らしい。平戸一帯を長く治めているようだ。ポルトガルとの交易は、中国との交易ともまた違う魅力があろうからな。平戸の王は、ポルトガル商人との交易を許し、キリスト教の布教も認めたらしい」。
「そして教会が建ち、日々キリスト教への改宗が進んでいるわけですな。しますと、日本がポルトガルの支配下となるのも、時間の問題ということでしょうか。スペインに滅ぼされたヌエバ・エスパーニャの古代帝国のように。日本がポルトガル領となれば、そこに我々スファラディが生き延びる余地があるのか。甚だ不安ではあります。まあ、その時はまたどこかに逃れるしかないのですが」。
ペレイラは、ラケルの言葉に少し頭を振ると、少し虚空を眺め、やがてラケルの眼をみて返す。
「ところがな。どうもすぐそうなるとも言えんようだ。面白い話がある。ザビエルが日本にたどり着いたとき、日本は既に激しい内戦状態だったようだ。まあ、内戦はどの国にもあることだがな。私が聞いて驚いたのは、ザビエルに続き、王直の助けを得て日本に渡ったポルトガル商人は、日本の西の地方を治める者に鉄砲を売ったそうだ。但しこれは、平戸の王とは別の領主だ。とてつもない価格で、数丁だけな」。
「無知につけこんで、法外な値段をつけるのは貿易の始まりにはよくあることです。買い手は、正価が判りませんからな」。
ラケルもヴィノ・カリエンテを一口飲み、ペレスの話に相槌を打つ。
「ところがだ。王直の部下から聞いたのだが、ポルトガル商人が気づかぬうちに、たった数丁だったはずの鉄砲が、あっというまに数百、千という数になり、内戦で使われるようになっていたらしい。ラケル殿、この意味判るか」。
「まさか、複製したと?」。
「そういうことだ。どうも日本には、古の時代に鉄を加工する技術が大陸から伝わったらしい。その技術で刀剣など造る中で、技術も成熟していったのだろう。それらの技術を使ったのか、わずか数年ほどで鉄砲を量産してしまった」。
「それは驚きますな。そのような話、他の国では聞いたことがない。では、その鉄砲技術を持ったものが、内戦に勝ち、新たな支配者になった?」。
「そこまでは判らん。聞いている話では、鉄砲は既に日本全土に広がり、あらゆる戦いで使われておるとのことだ。我々も、香辛料や絹より鉄砲を日本に売りたいと思い調べたのだ。しかし、日本人が作った鉄砲は、既に性能において我らの銃を上回っておるとのこと。だから我々の鉄砲はあまり売り物にならんそうだ。ただ、火薬と弾は彼の地では材料が上手く採れんらしい。だから今は、ポルトガル人も中国人も、硝石やら鉛やらを、血眼になって探している」。
「そうですか。それは確かに驚きです。しかし、鉄砲が普及しているとなると、内戦もさぞ激しいでしょうな」。
そう呟くラケルの脳裏に、港でのあの光景が鮮明に蘇る。
「内戦といえばペレイラ殿。私はマカオの港についてしばらく、船から陸を観察しておりました。その時、明らかにこのマカオのジャワ人とも、恐らくシナ人とも異なる風体の人々が、ポルトガル商人に連れられていくのを見ました。あれは明らかに奴隷のようでした。わたしはあれが日本人ではないかと見ております。このマカオで、日本人の奴隷商いがあるのでしょうか」。
ペレイラは、銀杯の底にわずかに残ったヴィノ・カリエンテを飲み干す。そして少し間をおいて、噛みしめるように言う。
「恐らくそなたが見たのは、日本人の奴隷で間違いないだろう。かの地の内戦はここ数十年、非常に激しいと聞く。勝った者が、負けた者の領地を奪い、捉えた者をポルトガル商人に売りさばいているのだ。あるいは金に困り子を売る親も、いるやも知れん。どこでも聞く話だ」。
ペレイラの顔が曇る。ここにきて初めて見る表情だ。
「彼らは、どこへ行くのでしょうな」。
ラケルは、商人なら誰もが聞かずとも分かることを、思わず聞いてしまう。それ以外に、言葉をつなぐ方法が見つからない。
「インド、あるいは、ポルトガル、あるいは、ヌエバ・エスパーニャ。いずれにしても過酷な生活が待っているだろう。東の果てでも、人間がやることは対して変わらんようだ」。
そう語るペレイラの表情は重く沈んでいる。ラケルもまた、どこか諦めの匂いを漂わせながら返す。
「福音の及ぶところ奴隷あり、ですな。しかし、売る者がいるから買う者がいる。そういう道理でしょう」。
ラケルの言葉に、ペレイラは、もうなにも返さない。
重苦しくなった空気を振り払うかのように、ラケルは話題を変える。
「ところで、かの地でイエズスの宣教師たちが戦っておるのは、どのような教えでしょうか。土着信仰、あるいは呪術や祈祷の類い。未開の地ではだいたいそのあたりが信じられていると決まっておりますが」。
「うむ。それもそなたにとっては重要なことだな。しかし、残念ながらその点も、詳しくはわかっておらん。まず、大陸伝来の教えが千年ほども前に日本に伝わり、深く浸透しているのは間違いのないことだ。インドで生まれた仏教だよ。中国を経由して日本に伝播した。日本には至る所に、この仏教の寺があり、その僧侶は強い力を持っているらしい。仏教では、人の形をした仏像なるものを拝む。まあ、偶像崇拝だな」。
「なるほど。そうしますと、かの地は、実態としては中国の属国と理解してよろしいか。属国とは言えずともかなり影響は強いと?」。
「ラケル。そこも、正直私にはよく分からない。ただ恐らくそうではない。かの国には、大陸伝来の仏教が定着しつつ、古代から伝わる信仰もあるやに聞く。平戸の領主が血を引くという、太古からの大王というのも、どういうものなのかははっきりしない。正直なところ、かの地がどのような国の形をしておるのか、わたしは良く分かっておらん。イエズス会の連中とはあまり関わりを持ちたくないので、積極的に情報を取っておらんというのもある。わたしが取引している貿易商人たちは、中国人も、ポルトガル人も、金にしか興味ないからな。取引相手のことはよく調べておるが、あの国の形については、聞いても要領を得ない返事しか返ってこぬ。王直が死んで、私のジパング情報網も、細ってしまったのだ」。
「それはやむを得ないでしょう。しかし、そのような限られた中で、それだけの知見をお持ちとは。逆にペレイラ様のお力に感服するところであります」。
ペレイラはまんざらでもなさそうに軽く笑みを返す。
「ラケル殿。私もかの地には非常に興味をそそられておる。到着されたら、身の安全を確保しつつ、ぜひ見分を広めていただきたい。そして私にも手紙で知らせてほしい。それは私にとって最高の贈り物となるだろう。しかし、だ」。
ペレイラは、ここで再び言葉を切り、一転して真剣な面持ちになる。そして、ラケルを見据えて問う。その表情からは、ヴィノ・カリエンテの酔いはもう、霧散している。
「ラケル殿。どのようにして平戸に入るつもりだ? 少し間違えれば、即イエズス会に通報され、異端審問官に引き渡されるぞ? 日本には異端審問所はないが、貴殿が捕縛されればすぐにマカオから官吏がはせ参じるであろう。そなたらはゴアまで逆戻り。火刑台まで一直線だ」。
ラケルはテーブルの上に目を落す。その通りだ。
「はい。実は、恥ずかしながら、情報がない故に、良い考えも浮かばないのです。情けない限りです。当初は海南島で補給し、そこで情報を得て入国ルートを見つけようと思っておりました。マカオは異端審問所のネットワークに引っかかる可能性が高いと考えたのです。ペレイラ殿のお力をもっと良く知っていれば、最初からマカオを目指したのですが・・・」。
ラケルは、普段このような心情の吐露をすることはない。それは弱さであり、この逃避行においては即、死に繋がる。それだけではない。ラケルを信じて運命を共にしている仲間の命をも危うくすることになる。ラケルは、口をついて出た言葉に自分で驚きながらも、平静を装う。しかし、ペレイラは、そのようなラケルの様子に気づく気配もない。頭に浮かんだ自分のアイデアに、既に夢中である。
「うむ。無理もない。しかし、蛮勇奮って飛び出しても、良いことはない。私に考えがある」。
ラケルは黙って次の言葉を待つ。
「中国商人と行動を共にするのだ。日本を相手に商売する貿易人たちを、中国の官憲は倭寇と呼んでおる。今、このマカオには、双嶼港壊滅後に逃れてきた中国人倭寇たちもしばしば逗留する。マカオはすでにポルトガルが支配しているが、ここではお互い持ちつ持たれつだ。中国商人からの仕入れなくして貿易は成り立たんからな。わたしは、王直のかつての部下たちとは今も取引がある。後輩達も多少の無理は聞いてくれるだろう」。
ラケルはすべてを理解する。
「かつて王直を頼ったポルトガル商人と、同じ作戦を取れと。確かにそれは唯一の方法やも知れません。もちろんそれはペレイラ殿のお力を頼らなくてはなりませんが」。
「良い。私は彼らに書状を渡し、そなたらを平戸の領主につなぐよう依頼しておく。もちろん彼らは商人だから、多少の手土産は渡してやってほしい」。
「それはもちろんです。平戸に入れるならば、わが船の積み荷は半分彼らに渡します。残りは平戸で使い道を考えます」。
「良い判断だ。さすればそなたは、平戸に行けるだろう。運が良ければ領主への謁見さえ叶うやも知れぬ。そなたが医者であり、同時に海賊であることはとても良い。平戸の領主もきっと興味を示すだろう。自らの身体と命、そして金に関心のない王はおらんからな」。
ペレイラは、そう言って少しいたずらっぽく笑う。
「ペレイラ様。私ども、一応貿易商人ということになっております。海賊ではなく。確かに、今の話をお聞きする限り、私もスファラディの倭寇、ということになりますな」。
ペレイラは待ってましたとばかりに大声で笑う。
「そうであった。そなたは海賊ではなく医者にしてポルトガルの貿易商人。しかし、その勇ましい風貌は確かに女倭寇じゃ!」。
その言葉と笑いに、ラケルの笑顔も弾ける。しばしの間をおいて、ラケルが続ける。
「ペレイラ様。われら一行に対するご厚意、感謝してもしきれません。しかし、ひとつだけ懸念がございます。平戸とポルトガルは、すでに航路開かれ、日々取引もある状況と推察致します。我ら一行がわざわざ王直の筋を頼って訪ねること、平戸の領主が不信を招くことはないでしょうか」。
「だからこそ、そなたが医者であることが良いのだ。様々な香料、薬草、その処方に関する知識は内戦激しい彼の地では重宝するはずだ。平戸の領主の庇護を得て、ポルトガル式の医院を開きたいと願い出るのだ。そなたがただのポルトガル商人として、キリスト教徒に交じり、平戸以外の土地に行く方が、よほど危険だろう」。
「ペレイラ様。全ておっしゃる通りです。平戸で領主に逢い、許しを得てささやかな医院を開く。それを実現させたいと存じます。今回のご恩は決して忘れません。無事我々が日本に上陸できましたら、必ずペレイラ様に手紙をお送り致します。将来もし貿易まで手を伸ばすことができましたら、わが商隊の権益は、全てペレイラ様のものです。今夜は大変すばらしい夕餉にお招きいただき、深く感謝致します。この数日、居候させていただきます。お役に立てるならば、なんなりとご用命ください」。
そういって、ラケルは椅子から立ち上がる。
「A ti bendicho seas.(あなたに祝福あれ)」。
「I a ti tamién.(あなたにも)」。
二人はラディーノ語で軽い挨拶をかわし、ラケルはダイニングを去る。見送るペレイラの顔を、窓から吹き込む生温かい風がやさしく包み込む。ひどく潮の香りがする風だが、もうそれはペレイラの人生の一部でもある。その潮の香りと、ヴィノ・カリエンテの残り香の中で、ペレイラは、ぼんやりと過去の記憶と向き合う。
私は、このラケルという女医者と、どこかで会っている気がしてならない。しかし、いくら思いを巡らせても、それがどこだったか、そしていつのことだったか。肝心なことは、深く暗い記憶の淵に沈んだまま、浮かび上がってこない。