トルデシリャスの東【第6回】第二章 逃避 / 出航 / 強い西風


トルデシリャスの東

第二章-逃避


出航

「錨を上げろ!帆を張れ! 出発するぞ!」。

女の声が紺碧の青天に響き渡る。

「ラケル!風が間に合って良かったな。すんでのところで異端狩りに捕まるところだった!マラッカの異端審問所はまだ人も足りておらんようだ。これがゴアだったら、今頃我々は縛り首だ!」。

持て余すほどの巨躯を持つ、屈強な海の男が、笑いながら軽口をたたく。

「ディエゴ!我々が縛り首で死ねるわけがなかろう!」。

ディエゴもさらに声を張り上げる。

「そりゃラケルはそうにちげえねえ。頑固者だからなあ!でも俺はいざとなったら恥も外聞もなく懺悔とやらをするかも知れねえぜ。いや、きっとする。そうしたら死んでもよ、どっかで復活できるかも知れねえ。燃やされちまうのだけはごめんだ!」

「ははは!お前らしいな。お前はわたしをかの地まで運びさえすれば良い! それまで死なずにしっかり働け!そのあとお前が、焼かれて死のうと、吊られて死のうと、溺れて沈もうと、知ったことではない!」。

「相変わらず口が悪いなあ。しかし、ラケル。やけに楽しそうじゃねえか。俺たちは、また逃げるんだぜ。しかも今度は、ゴアでもマラッカでもなく、東洋の神秘の国だ。同胞もいねえ。なにがどうなっているか、なんにも判らねえんだ!俺たちはそこにいって、死ぬだけかも知れないんだぜ? なのになんで、そんなに楽しそうなんだい?」。

「楽しそうに見えるか。そうか。お前には隠せんなあ。そうだ。未知の国に行く。それもわが民族でさえ知らない地なのだ。血が騒ぐ。我々は逃げるのではない。向かうのだよ、ディエゴ!」。

船は早くも港を出て、風が帆を強く推す。風鳴りが強まり、ギコギコと鳴るデッキの音もかき消す。しかし、二人の声は不思議とよく通る。

「勇ましいなあ。しかし悲しいじゃねえか。ヴィゼウにいたころはよ。お前にいい寄って来る男どもを追っ払うのが、俺の役目だった。それが今じゃ太陽に焼かれて、潮にまみれてよ。水夫みてえに真っ黒だ。頭なんか甲板に転がってるボロボロの麻縄みてえだ!」。

「ディエゴ。それはなあ、航海士がボンクラだから、船長が苦労してるってことだよ!それにしてもヴィゼウか。ずいぶん昔のことをほじくり返すじゃないか。昔話は嫌いだ。お前が最近妙に老けて見えるのは、そんな昔のことばっか考えてるからじゃないのか」。

ディエゴはその言葉に苦笑いをかみつぶしながら、なおも続ける。

「なあラケル。もう医者の看板なんか下ろしてさ。いっそ海賊にでもならねえか? 最近の海賊はえらく儲かるらしい!商売するにしたってよ。この先じゃ胡椒やら薬草やらより、生糸やらガラス玉やらのほうが儲かるらしいぜ」。

「海賊か。北に逃げた妹からの便りではな。イングランドでは王が海賊を雇い、スペインやポルトガルの船を襲っているらしい。あいつらの船は新世界から巻き上げたお宝を満載しておるからな。沈めずにうまいこと拿捕できりゃ、そりゃ儲かるだろう。海賊の中には女王に気に入られて、王室のお抱えになっちまうような連中も出てきているらしい。妙な時代になったもんだ」。

「イングランドか。全く知らねえ土地だが、そんなに儲かるなら悪くねえ!なんなら俺らもよ。その辺でスペインの船見つけたら襲っちまうか?そのあと、イングランドとやらに駆け込めばよお。大金持ちになれるんじゃないか?」。

「ははは!。このくたびれたボロ船で、どうやって武装商船に勝つというのだ。申し訳ばかりの艦砲がたった六門。まともに使えるのは二門。これじゃ、火刑台に一直線だ。くだらん事をほざいていないで働け!この先はすぐ岩礁地帯だぞ。風も南に振れそうだ。外洋に出る前に座礁でもさせたらな。異端審問の連中に狩られる前に、わたしがお前を縛り首にしてこのマストにぶら下げてやる!」。

「おーこわい、こわい。ラケルの癇癪玉に火が付いた。退散退散!」

ディエゴはそういって船室に消えていった。ラケルは後部甲板にいく。航跡の向こうに追手の船影はないか。じっと目を凝らす。そうだ。我々はまた逃げるのだ。しかも全く知らない未知の世界に。

「フィランド・・・」。

ラケルは目指す地の名を声に出してみた。町の名前以外、何も知らない。いや、そもそもそこは町なのか、国なのか。それすらも良く分からない。でも、行くしかない。マラッカの異端狩りはまだ脆弱な体制だ。でも、我々が逃げた事に気づくまで、そう時間はかからないだろう。この道しかない。ラケルは自分の決意と畏れを刻み込むかのように、何度かマストを叩いた。頼むぞ。アウロラ号。オンボロ船だが、今回もお前が頼りだ。


強い西風

「ラケル。だめだ!南西風は狙い通りだが、西寄りが強すぎる。潮もよくねえ。どんどん持ってかれちまう。これじゃ海南島で補給するのは無理だよ!もうマカオに行くしかない!」。

マラッカから出航して三日目。アウロラ号は海南島を目指し、南シナ海を北上しようとしていた。

「ディエゴ。マカオはあいつらの巣窟だぞ。このオンボロより速い船が先について、港で手ぐすね引いて待っていても、おかしかないんだ。そんなところに、のこのこ突っ込んで行けと?タッキングはお前の得意技じゃないか。泣き言は聞きたくないね!」。

「だめだよ。この風じゃどう頑張っても西に流されちまう。ラケル。お前ももういっぱしの船乗りだ。風に逆らったところでなにもできねえのはよくわかってるだろ?ゴアのときも、マラッカのときも、さんざん苦労したじゃねえか」。

ラケルはただ黙って、割れる白波を甲板から見つめている。

「なあに。マカオはバカでけえ町だってさ。十字架ぶら下げておしとやかにしてりゃ、俺たちのことを疑う暇な奴なんていないよ。スファラディのコミュニティも元気らしい。さっさと補給だけしてそそくさと退散さ。オンボロでもよ。こいつはリスボンからゴアまで長旅に耐えた。マカオで補給さえできりゃ、あとはフィランドまでちょろいもんさ」。

西風を満々と受けて膨らむ帆を見上げながら、ディエゴが目を細める。それは娘を見る父親のまなざしそのものだ。

「確かにそうかも知れんな」。

ラケルはひとことそう応じた。

「なんでえ。今日はえれえ素直じゃねえか。調子くるっちまう」。

ディエゴはそう呟くと、頭を振りながら船尾の帆を畳みに向かった。ディエゴは豪胆に見えて小心者だ。そこがいい。ラケルはそう思っている。逃避行では、大胆なやつほど早く死ぬ。そしてディエゴは、不安な時ほど虚勢を張る。もう長い付き合いだから良く分かる。だから、ディエゴのから元気は、逆にマカオの危険性をラケルに確信させる。そのディエゴが、マカオにいくしかないと言っている。それほどこの西風は難しいということだ。

(風に逆らってはいけない)。

ディエゴのその言葉は、何度もラケルと仲間を救ってきた。海南島に拘るか。マカオに行くか。それともこのまま風に任せて、マカオよりもさらに西に進むか。

マカオに寄港せず、さらに西に進むと、いくつかの島に港があるらしい。四百海里ほど西に進んだところで南風をうまく捕まえれば、大陸沿岸のシナの港に入れる可能性もある。でもそこは、アジアの海賊の拠点でもあるだろう。異端狩りより危ないかも知れない。それに、いま捕まえられない南風を、あとから捕まえられると考えるのは、愚か者の思考だ。

さて、腹の括りどころだな。ラケルは船室に戻り、机上の袋包みに手を添える。こんな時のために、密貿易人から、偽造通行許可証を買ってある。全員の洗礼証明書もある。これを揃えるのに大枚をはたいたが、果たして本当に使えるのか。

「スファラディ・コミュニティか」。

ラケルはつぶやく。ディエゴに言われるまでもない。マカオのスファラディ・コミュニティはかなりの規模であることも知っている。偽造通行許可証も、洗礼証明書も、マカオのコンベルソと連携している仲間が手に入れてくれた。そして、ペレイラという、マラッカを拠点としている貿易商人への紹介状も。

「仲間。それがまた、厄介なのさ」。

葛藤が、ラケルの心臓をぎゅうと握りしめる。それでも行こう。マカオへ。風に逆らうな。ラケルはまどろみの中で自分に言い聞かせる。頬をはたくような生暖かい風が、帆を風船の様に膨らませ、船は飛ぶように西へと進んでいく。上弦の月が、海面に歪んだ姿を落とし、白波で壊れてはまたその影を落とす。船の揺れが、疲れた女に抗しがたい睡魔を贈る。ラケルはいつしか深い眠りに落ちる。


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GMDコーポレートファイナンス(現KPMGFAS)にてM&Aアドバイザリー業務に従事。バイサイド、セルサイド双方の案件エグセキューションを経験。 その後、JAFCO 事業投資本部にてバイアウト(企業買収)投資業務に従事。 また、IBMビジネスコンサルティングサービス(現日本IBM)にて、通信/ITサービス企業の事業ポートフォリオ戦略立案等、情報通信/ITサービス領域におけるコーポレートファイナンス領域のプロジェクトをリード。
2013年 IGNiTE CAPITAL PARTNERS株式会社設立。代表取締役就任。

日本証券アナリスト協会検定会員
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