暗闘
千四百九十二年三月のある日。女王イザベルは、この日もサンタフェにいる。執務所に設けられた閣議の間の中央で、イザベルは瀟洒なビロードの椅子に座っている。憂鬱な表情を浮かべながら。彼女の目の前の机上には、ローマ教皇庁からの文書が無造作に投げ出されている。もう何年も前に、インノケンティウス八世の名で両王に届けられた書簡である。イザベルの横にはフェルナンド王が座っている。そしてその前に立つのは、異端審問官長トマス・デ・トルケマダ。その後ろには、イサク・アブラバネル。そしてその横には、ルイス・デ・サンタンヘルも控える。
アラゴン・カスティーリャ連合王国の運命を直接握る者達が今、一堂に会している。これからの数時間が、連合王国の行く末、百年を決めるだろう。イザベルは、そのことを痛いほど理解している。小刻みに震えるその手をぎゅっと握りしめ、その勢いを借りて語りだす。
「トルケマダ。数年前にローマ教皇庁から来た小言。覚えておるか。この手紙には、お主がまい進する異端審問のやり方が常軌を逸しておると、ずいぶん手厳しい詮議が書かれておる。忘れてはおらんだろう。最近は教皇庁も、我ら連合王国の破竹の勢いに恐れをなしたのか、鳴りを潜めておるがな。そして、そなたは今、我々にユダヤ人の追放を進言してきた。領内のユダヤ教徒は二十万人。判断を誤れば連合王国は破滅するぞ」。
トマス・デ・トルケマダ。イベリア半島を聖なるキリストの地として、その宗教的純化を願ってやまぬ、敬虔なる神の奴隷を自任する男。そして、その目的実現のために、異教徒はこの世から消し去らねばならぬという、信念という名の狂気をまとう男。しかし、同時に、二十万ものユダヤ教徒の命を全て奪うのは不可能であるという物理的現実の前に、歯ぎしりをし続けてきた男。今トルケマダは、全ユダヤ人の国外追放しか、神の御心に叶う方法はないという自らの考えに、陶酔し切っている。
「イザベル様。その手紙、覚えております。教皇とは気楽なものだ。敬虔なるキリストの子が、日々異教徒の誘惑に惑い苦しんでいる事には目もくれず、逆にその異教徒どもの泣き言に耳を傾けて愚痴を言ってくる。これもまた、この地に彼らが跋扈しておるからです」。
トルケマダはそこまで言うと、ひとつ息を吐く。
「私とて、異端審問などしたくないのです。しかし、迷える者どもに、どれだけ福音の真理を伝え、その魂を闇から救おうとしても、あの者達が邪魔をするのです。
哀れな者達が福音に目を開き、この世の光を掴もうとしているまさにその時、その襟首をつかんでグイっと闇に引きずり戻す。それもこれも、この国に邪教の徒が居座り続けておるからです。我々はあらゆる手を尽くした。街の中でキリスト教徒とユダヤ教徒が交わらぬよう、隔離もしました。それでも、偽装改宗者は後を絶ちません。両王が連合王国を敬虔なるキリスト教徒の国とし、神の祝福を真に得ようと願うならば、全ユダヤ人をこの地から追放する以外、もはや手段はないのです!」。
饒舌なトルケマダの演説を、肘に頬を当てて聞いていたフェルナンドが、おもむろに口を開く。その眼は冷酷な為政者のそれであり、どこまでも冷たい光を放っている。
「おぬしが言いたいことは一貫しておる。それは認めよう。ところで、異端審問により背教者たちから没収した財産は、今、それなりに国庫を潤して居る。しかし、ユダヤ教徒を全土から追放すれば、いずれ国庫の収入も減るぞ。それはどうする?」。
トルケマダは、アブラバネルを一瞥したのち、こともなげに言い放つ。
「追放するユダヤ人達の財産は、全て没収。当然でしょう。さすれば、国庫には膨大な資産が入ります。レコンキスタで傷んだ国庫の回復にも、今後の連合王国の繁栄にも役立つでしょう。この国に災禍をもたらし続けた異教徒が、最後にできるせめてもの貢献です。より具体的には・・・」。
トルケマダの言葉を最後まで聞くことなく、アブラバネルが遮る。その顔は真っ赤に膨れ上がり、目は怒りと畏れで血走っている。
「フェルナンド様。私からお話してよろしいでしょうか」。
「聞こう。そなたはユダヤ教徒である故、この問題の当事者に他ならぬ。わしらとて、そなたのような有能な人材を自ら失うような策が、誠にこの国に繁栄をもたらすか否か、しかと見極めねばならん」。
アブラバネルはその言葉を聞くと、トルケマダを睨みつけ、言葉を繋ぐ。
「申し上げます。このような追放をもし両王が決断なされたならば、それは必ずや、連合王国の未来を暗黒へと誘うことになりましょう。我々ユダヤ教徒が、どれだけ両王に貢献してきたか、どうか今一度、思い起こし頂きたいのです。これからも、連合王国は様々な困難に直面することでしょう。その時、我々ユダヤ教徒は必ずや両王の栄光のため、さらなる貢献を惜しみませぬ。しかし、今、領内二十万ものユダヤ教徒を永久追放されたならばどうなりましょう? 一時の財産と引き換えに、その永遠の貢献を失うのです。両王は連合王国の全ての民の安寧と発展の責を担っておられる身。一時の感情に流されてはなりませぬ」。
それを聞いたトルケマダが、憤怒の表情でアブラバネルを凝視する。
「両王の土地を、永遠に聖なるキリストの地とすることが、一時の感情とは何事か! アブラバネル殿。両王に対するその不敬、決して許されぬぞ! それに、ユダヤ人を追放することが連合王国の未来を終わらせる? 何をふざけた事を!追放を実現する事こそが、連合王国の輝かしい未来の幕開けとなるのだ!」。
しかし、アブラバネルは怯まない。トルケマダの怒りを無視し、両王に嘆願する。
「イザベル様、フェルナンド様。もし、この追放をお取下げいただくことができるならば、このアブラバネル、他の者と協力し、三万デュカードの献金を致します。それでも足りぬならば、この地にいる全ユダヤ教徒の財産を供出しましょう。しかしそれでも、この地に我らを留めおくことをご決断なされば、未来に渡って両王にもたらされる富と繁栄とは比べるべくもございませぬ」。
「なりませぬぞ両王! かつてイスカリオテのユダは、銀貨三十枚でイエズス様を売った。今、あなたはまたイエズス様を金でお売りになるおつもりか!」。
「聞き捨てならぬ! そなたはその逸話が大層お好きなようじゃ。しかし、はっきり言わせて頂く。そなたらが言う最後の晩餐にいた者十三人。彼らは全てユダヤ人ですぞ。なによりも、イエズス様ご本人が、ユダヤ人ではないか。まるで、イスカリオテのユダ一人を、ユダヤ人全体と取り違えて惑わせるような狡猾な詭弁。わが民族の誇りに賭けて許せませぬ!」。
トルケマダは、目を血走らせてアブラバネルを見据える。激高し、怒号を上げる。イザベルはそれを手で制し、悲しげに言葉を吐く。
「アブラバネル。忠臣であるそなたが、同時に敬虔なるユダヤ教徒であること。そしてそなたの前でこのようなことを決めねばならぬ事。思い悩まずにはおれん。王とは誠に悲しき者じゃな。しかし、我らの民のため、私は決断せねばならぬ。そなたらが改宗せぬ以上、キリスト教徒のために、去ってもらうほかないではないか」。
「そんなことはございません。我々は、偉大なる両王の元、共に暮らせるはずです。これまで数百年、そうしてきたではござりませぬか!」。
アブラバネルのその言葉に、イザベルは答えない。無言を貫いたまま、虚空を見つめる。その間を埋めるように、フェルナンドが口を開く。
「サンタンヘル。そなたに聞こう。仮に今、全ユダヤ人をこの国から追放したら、どのくらいの財産が国庫に入る?」。
それまで一切の言葉を発することなく、ただ無言を貫いていたサンタンヘルの顔に、苦悶の表情が浮かぶ。アブラバネルは、胸の内でつぶやく。
(なんと残酷なことを問うのか。フェルナンドとはこうも冷徹な王だったのか!)。
アブラバネルは、未だ知ることのなかったフェルナンドの心の闇に触れ、慄かずにはいられない。そして、問われたサンタンヘルも、まるで魂を失ったかのように茫然とし、しばし沈黙を保つ。それを見たトルケマダが、嘲るように挑発する。
「サンタンヘル殿。どうなされた? お答えなされ。コンベルソのそなたが答えるのは、少し酷かな? しかし、私が異端審問所長であることをお忘れなく。お答えの次第によってはそなた、即座に異端と見做しますぞ?」。
サンタンヘルは、意を決して言葉を返す。その魂の震えが伝わらぬよう、精一杯に声を張り上げて。
「連合王国領内全てのユダヤ人を、財産没収の上追放すれば、得られるであろう資産は、三万デュカードどころではございませぬでしょう。軽くその数十倍には達すると思われます」。
それを聞いたフェルナンドは静かに目を閉じる。そして続けて問う。
「そうか。では、この追放を確実に、かつ混乱なく行うために、ほかに何が必要か」。
サンタンヘルは、その精神の力の全てを振り絞って訴える。
「フェルナンド様。この追放、もし誠に遂行されるならば、恐るべき混乱が生じること必至でございます。その混乱を、極力避ける努力が必要です。まず、追放されるまでの間、ユダヤ人達の身の安全が保証されるべきで御座いましょう。そうでなければ、強奪や略奪により、国土が大混乱に陥る事、間違いございません。適切な期限を設け、国外へ去るユダヤ教徒への違法な検問。税の徴収という名の略奪などを、厳密に監視すべきと存じます」。
「ふむ。その通りだな。混乱を収束するための打ち手が、さらなる混乱を招くなどもってのほか。追放を最終決断したら、また改めて、そなたの助言を聞こう」。
そういうと、フェルナンドはイザベルの方に首を捻り、この討論の終焉を目で示唆する。それを受けてイザベルが何かを言おうとした時、サンタンヘルがそれを遮り、両王に懇願する。
「カトリック両王。最後に、ひとつだけ、このサンタンヘル、生涯を賭したお願いをさせていただきたい。どうぞ、ほんの少し、私の話に耳を傾けていただけないでしょうか」。
それを聞いた両王は、浮かしかけた腰を椅子に戻し、サンタンヘルを見据える。イザベルが言う。
「申してみよ」。
サンタンヘルは、イザベルの目をまっすぐ見据えて切り出す。
「どうか、どうか、クリストバール・コロンの航海を、ご裁可頂きたいのです。私はもう一度、この航海に必要な資金を計算しました。バロンの船を使わせていただけるのであれば、この航海、両王が懸念するほど、資金は必要ありませぬ。外国の賓客を招いて、十日ほど宴を催す程度の金額でございます。この資金、このサンタンヘルが全て、お出し致します。両王は、ただ裁可をお与えになるだけで良いのでございます。仮に失敗したとて、あの野心家が海の藻屑と消え、世間の物笑いとなって終わるだけのことでございます。
しかし、あの男は今、フランスに向かっております。もし、フランス王のもとにこの航海が成功した場合、両王の栄誉と、連合王国の繁栄に重大な危機が生じますこと、間違いございません。どうか、このサンタンヘルの生涯の願いをお聞きとげ頂きたい」。
イザベルの横でそれを聞いているフェルナンドは、なにも言わず、ただ、サンタンヘルの目を見つめている。後世において、マキャベリをして新しい王と言わしめたその男が何を考えているのか。サンタンヘルにはもう、分からない。代わりにその横にいたイザベルが口を開く。
「分かった。そなたのそこまでの願い、一顧だにせぬ、という訳にはいかぬであろう。少し時間をくれ」。
サンタンヘルは、その言葉を聞き、深く、深く頭を下げる。その様子を見たフェルナンドが、淡々と終わりを告げる。
「さて、今日の討議はこれでしまいじゃ。ユダヤ教徒の追放、コロンの航海。沙汰を下すまで待て」。
そういうと、フェルナンドは椅子から立ち上がり、部屋を出ていく。イザベルがゆっくりと、その後を追う。イザベルは、部屋を出る直前、突然その歩みを止めて振り返る。そして、アブラバネルの方に顔を向けて、一言問う。
「そなたは、やはり、改宗せぬか?」。
「私は、去ります。お許しください。イザベル様」。
それを聞くと、イザベルはただ小さく頷き、奥へと消えていった。
ユダヤ人追放を宣言するアルファンブラ勅令は、この数十日後、千四百九十二年、三月三十一日に発布された。コロンの航海を承認するサンタフェの規約は、四月十七日に締結された。ユダヤ人の追放は、七月三十一日が期限となった。クリストバール・コロンは、八月三日にバロスを発った。
託された希望
モンカヨ山はもう、深い漆黒の闇に包まれている。サンタンヘルは今、天がその命の灯をやさしく吹き消す瞬間が来た事を悟る。その脳裏には、朝焼けと共に国外へ逃れるユダヤ教徒の船を掻き分けるようにしてバロスの港を発った、サンタ・マリア号の姿が蘇っている。その船上では、あのコロンが誇らしげに陸に手を振り、野心と狂気を満載にした船を、沖へと進めていく。
しかし、死の刹那、サンタンヘルの胸をよぎったのはもう、コロンの事ではなかった。救おうとした幼い命が、その細い運命の糸を手繰り寄せ、未来を掴むことができたのか。ただそのことだけがその胸を覆い尽くす。
(あの娘の名は、ヌニュスと言った)。
サンタンヘルは朦朧とする意識の中で、何度もその名を呼ぶ。
(嗚呼、すまない。ヌニュス。お前の母は私の従妹だったのに、その身近な命一つさえ、私は救うことができなかった。お前の母は、あっけなく火刑の犠牲となり、灰となってしまった。必死で救おうとしたのだ!しかし、どうすることも出来なかった!今はただ、ポルトガルに逃れたというお前が、その命繋いで生き延びていることだけを祈ろう。
私は、偽りの人生を生きた。ただ、屈辱と恐怖から逃れるために!嗚呼、アブラバネル。私はあなたの強さが憎い。陳腐な名誉といくばくかの金のために、私は自らの魂を偽り続けた。許されることではない。しかし、神よ。そして、未だ我々の前に現れて下さらぬメシアよ! どうか、どうか、あの娘をお守りください。あの娘は、我が一族の最後の希望なのだ。どうか、どうか・・・・)。
サンタンヘルの顔から、徐々に精気が去っていく。やがて、その魂から最後の力が静かに失われるその瞬間でさえ、男の表情にやすらぎが訪れることはなかった。それでも漆黒の闇は、主を失った肉体を、いつまでも、いつまでも、優しく包んでいた。