イサク・アブラバネル
千四百九十二年年二月。コロンの両王への謁見から数週間。サンタンヘルは今もサンタフェにいる。ここは今、野営地というより、もはや臨時に設けられた政治の中心地といった方が的確である。両王もいまだサンタフェに滞在し、グラナダ征服の果実を確実なものとすべく指揮を執っている。全ての重要事項が日々、このサンタフェで決まっていく。
スペインでの夢破れたコロンは、まだ諦めていない。一縷の望みに賭けるべく、弟を頼ってフランスへ旅立つ準備を進めている。しかし、サンタンヘルもまた、諦めてはいなかった。コロンの計画が、両王に莫大な利益をもたらす可能性があるからだけではない。ポルトガルやフランスがコロンの提案を受け入れ、もし西への航路を手に入れたならば、両王の権勢が世界に轟くことは、もうないだろう。生涯を捧げて両王に仕えることを誓ったサンタンヘルにとって、それは自身の敗北をも意味する。まだ可能性はある。サンタンヘルも、そう信じている。
しかしそれでも、心は鉛のように重い。なぜか。自らの魂を暗黒に貶める恐ろしい事態が今、同時進行で起きようとしている。グラナダ奪還の絶頂の最中で、それは既に彼の頭をよぎっていた。
トマス・デ・トルケマダ。創造主の裁きの忠実なる実行者を自任するあの男が、この歴史的回天の時に乗じて、なにか重大な行動を起そうとしているのではないか。嫌な予感がしてならない。そしてその時、サンタンヘルが執務を取る小さな建物の一室に、一人の男がただならぬ形相で飛び込んでくる。その男の焦燥し切った表情を見て、サンタンヘルは不幸な予感が的中したことを悟る。
「ドン・イサク・アブラバネル。いかがなされた」。
サンタンヘルが声をかけたその相手は、彼の盟友である。アブラバネルもまた、王の財務官として仕えるスファラディであり、グラナダ奪還における戦費調達において、中心的な役割を果たした。アブラバネルは、自らが事業で築き上げた莫大な財産を、戦費として王室に貸し付けていた。グラナダ攻略における直接の功においては、サンタンヘルもこの男には及ばないかも知れない。そして、この男がサンタンヘルと異なる点はもう一つ。その信仰である。イベリア半島のスファラディが困難極める状況にありながらなお、アブラバネルはユダヤ教の信仰を捨てず、自らがユダヤ人であることを隠さない。
「ドン・ルイス・サンタンヘル。良くない。非常によくない状況だ。トルケマダが、ついに両王にユダヤ人追放を進言したらしい。内容は苛烈だ。七月までにユダヤ教徒は、全て国外追放せよと。なおも国に留まりたければ、直ちにキリスト教に改宗せよということだろう」。
アブラバネルの声は畏れに震え、その驚くべき内容に、サンタンヘルの心も激しく慄く。
「そんなバカな! 両王の領地にいるユダヤ教徒は二十万人以上ですぞ。半年以内に全て追放するなど、できるわけがないでしょう。もしそのような愚かな事をすれば、どんな破たんをもたらすか。両王がそのような話を受け入れるはずがない!」。
サンタンヘルもまた、ひどく狼狽していた。この沈着な男がここまで取り乱したことはついぞないと思えるほどに。無論、グラナダ奪還の高揚に乗じて、トルケマダがなにかの行動を起すだろうということは予想できたことだった。しかし、その内容はサンタンヘルの想像をはるかに上回る壮絶なものである。
「私も信じたくはない。しかし、トルケマダが起草した追放令の案を、わたしはこの目で読んだのだ。間違いない。あの男は今、両王の土地から全ての異教徒を消し去って浄化するという自らの妄想に、完全に憑りつかれておる」。
アブラバネルのその言葉には、トルケマダの決断に対する言いようのない怒りと恐怖が込められている。
「ドン・アブラバネル。私もできることは全てやる覚悟だ。一刻も早く両王に謁見し、この追放令がいかに愚かで両王に害をもたらすか、説得せねば」。
「いや。それはだめだ。ドン・ルイス。あなたはコンベルソと知られた上で尚、両王の厚い信頼を得ている。未だユダヤ教徒である私に肩入れしてこの追放令に反対すれば、あなたの立場を決定的に危うくしますぞ。」。
「それは承知だ。しかし、私は古から受け継がれたスファラディの血がこの体に流れていること、一日たりとも忘れたことはない。わたしは、行動しなくてはならない」。
「ドン・ルイス。あなたの思いは嬉しい。しかしだめだ。私は職を解かれ、再び流浪の民となる運命だ。私は改宗しない。だから、ただ去るのみだ。しかし、そなたは違う。必ずや異端審問の犠牲となる。この国にはなお、あなたが必要だ。残る者、去る者、それぞれに定めがあるのだ」。
(私は改宗しない)。
アブラバネルの言葉が、サンタンヘルの胸に深く、突き刺さる。二人の間に長い沈黙が訪れる。スファラディがこの地に辿り着いて千数百年。長きに渡り紡がれてきた細い糸が今、断たれようとしてる。突然回り始めた歴史の歯車の余りの速さに、天賦の才に恵まれた二人の男も、しばし茫然とする。
「ドン・アブラバネル。しかし、私は・・・・・」。
言いかけたサンタンヘルを、アブラバネルが遮る。
「ドン・ルイス。そなたにお願いしたい事がある。それを伝えたくてここに来た。そなたには、コロンの航海を、なんとしても実現させてほしいのだ」。
アブラバネルの突然の言葉に、サンタンヘルは少し戸惑う。しかし、その聡明な頭脳はその言葉の意味をすぐに理解する。
「確かに。コロンの航海は、我々にとって別の意味を持つことになるかも知れぬ。この追放令を撤回させることができなければ、二十万を超えるユダヤ民族が流浪の民となる。どこに行っても危険だ。南も。北も。東も。しかし、西の海の先にもし新天地あれば、あるいはそこで新たな運命を切り開く者が出て来るやも知れぬ」。
「ドン・ルイス。その通りだ。無論、あの男が海の藻屑と消えればそれで終わりだ。しかし、もしそこに一縷の望みでもあるならば、我々は挑まなければならない。私は、最後の一瞬まで、トルケマダの狂気を止めるべく努力しよう。サンタンヘル殿。頼みます。何とかコロンの航海を実現させて頂きたい。続いて来たものを、ここで絶やすわけにはいかないのだ。私が王室に貸し付けたグラナダ奪還の戦費。私はこの債権を放棄しても良い。その分コロンの航海に回してほしいのだ。差配は全て貴殿に一任する」。
サンタンヘルも応じる。
「ドン・アブラバネル。相分かった。貴殿の債権の扱い。コロンの航海の実現。必ずやこのサンタンヘル、そなたの思いに応えてみせよう。加えて、我々は万一に備え、ユダヤ教徒が国外に逃れるための手段の確保にも取り掛かるべきであろう。杞憂で済めばそれでよいのだ。国境越えの危険、船舶輸送の拒否。あるいは混乱に乗じた略奪、謀略も起きよう。残るものとしてこれらを厳しく詮議し、混乱を最小限に抑えること。私は全責任をもって望む」。
アブラバネルはその言葉を聞くと、小さく、しかし満足そうに頷き、静かにその場を立ち去った。外は既に日が落ち、松明の光が路地を照らしている。そしてその火も燃え尽きた後、闇が全てを包み込む。